「心そのもの、命そのもの」
【5】 道元との対面
私、今から20年程前に、「正法眼蔵」を10数年座右に置いたんです。第1巻ですが。そして10数年経って、こう思ってた。「正法眼蔵」の扉は「心不可得()」。「心不可得」というのは、心というものは段々見る目が開けて来ると、不思議なものだなーという意味です。この「心不可得」という扉を開く鍵は「生死去来()」。「生死去来」というのは、過去世が懐かしくて仕方がないという心です。そう思ってた。
それで正座して、正座するの習慣ですから。そして「生死去来」の4字に思いを凝らしてたんです。そうすると道元禅師が衆僧と共に来て下さって、無言の説法をして下さった。以後、「正法眼蔵」に関することはすらすらと皆わかる。
さて、そこんとこですが、どんな風にして会ったかっていうと、ある短い時間の間、私の周囲の空間が入れ替ったんです。で、私には意識の不連続が二度起こりました。で、二度目の不連続が済んで自分に帰ると、もとの通り(正座していた。)しかし、お堂の畳を踏んだ感触が足の裏にまざまざと残っていた。こんな風です。
これはどうかっていうと、道元禅師は肉体を持ってないんです。そうすると第2の心だけになってる。第2の心には空間なんかないんです。ただ時のみがある、空間はないんです。で、空間はないんだから、つまり、空間はこの心の中にある、依存してある。だから、そこへ行こうと思ったら、もうそこへ行ってる。
で、道元禅師、私に会おうと思ったもんだから、もう来てたもんだから、私にとってみたら二度意識の不連続を起こさされてしまったという訳。無言の説法というのは、その第2の心と第2の心とが合わさった。私も肉体持ってなきゃあ何もそんなことする必要ないんだろうけど、肉体持ってますから中心は頭頂葉にあるから、側へ来なきゃわからんていうこと。
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