「嬰児に学ぶ」
【8】 茫然自失のはずの物理学
これで物質は不生不滅であるという古来の観念は破れた。また物質をもって第一原因とするという理由もなくなった。にもかかわらず、他の自然科学は旧態依然としている。じゃあ物理学はどうかっていえば、物理学者は何よりも時間空間の全体を考えてるから、一体、素粒子はどこから生まれてきて、どこへ消えていくのだろうと不思議がって、茫然自失してるというのは本当でしょう。
本当は自然科学は救いようもない間違いを発見したということを知らない。どうすれば学説をごまかすことができるだろうかと、それに専念している。もうそれに専念しだしてから大分になります。如何にごまかすかったって、こんなん駄目ですよ。早く間違いを認めなければ。
それじゃあ一体素粒子はどこから生まれてきて、どこへ消えていってるのか。これについては先程挙げました山﨑弁栄()上人の「無辺光」の大円鏡智の章に答えが書いてあります。「素粒子は第2の心の世界から生まれてきて、また第2の心の世界へ帰っていっているのである」と。人の真の自分は第2の心、第2の心は不死です。大体、この、物質がそこから生まれてきて、またそこへ帰っていくくらいの不死です。
猶、自然科学が法則を充たすというのも嘘ですよ。山﨑弁栄()上人は、あの方は数々の奇跡を行なってられる。奇跡というものが本当にあるということと、自然科学が法則を充たす、即ち学問であるということとは両立しない。ところが釈尊やキリスト(は奇跡を行なった。しかし、)法則を充たすということが実験できると思いますか。できるはずない。
そしたら一握り。で、あれは昨日もそうだった、一昨日もそうだった、その1つ前もそうだった。だから今日もそうだろうというのと同じこと。つまり生きる為の知恵という。生きる為の知恵という、それも物質現象に限られてるというものならば、猿はそんなもの持ってます。人が自然科学を持っているということと、猿とはなんら区別のつけようがない。
人は道徳を持ってるから猿と違うのです。価値判断を間違ってしまっている。猿と同じです!生きる為の知恵です!
しかも物質現象に限る! 今までそうだったから、多分、今日もそうだろうと思ってる。山﨑弁栄上人のような方が突如としておいでにならないとどうしていい切れる。まして神仏()は無量にいますよ!誰一人来たってそうはならん。
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