(※解説11)
皆さんはご存知ないかも知れないが、当時の日教組は自分達の生活を守るという名のもとに、みずからの授業を生徒達の自習の時間にして、組合運動に熱中する先生がいたのである。
こういうのを「第1の心」の「自己中心」というのだろうが、そこには岡のいう「第2の心」の「誠心誠意」が欠けらもないと岡はいうのである。だから母親の方が余程ましだというのである。
私が尊敬する高校の恩師、内田八朗は著書「教育に生きる」の中でこういっている。「たとえ妻が病に伏していても、我が児が家で泣いていても、生徒達のためにともかく学校へ足を運ぶのが教師である。」岡はこういうのを教育者としての「誠心誠意」といいたいのだろう。
猶、ここで岡は唯識論の世界観にもとづいて、人とは過去の集積である「第8識、時」であるといっているが、これは後々には無量の情緒の集積である「第10識、真情」であるという風に変わってくるのである。それが証拠に、情の世界の特徴である「混じり気のない」「濁っていない」という表現をここでは使っているから。だからこの文章を、「時」という言葉を「情」という言葉に変えて読んで頂くと、意味がよくわかるのではないだろうか。
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岡潔講演録(17)1969年の質疑応答
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