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2015.12.26up

岡潔講演録(17)


「1969年の質疑応答」

【11】 学校とは誠心誠意

(質問) しかし、現在の母親というのは「教育ママ」とかいろいろいわれてるように、余りかんばしい母親がいないと思いますが。

(岡) 日教組よりはよろしい(爆笑) 人は学問じゃありません 学校というものを改革してるんです。本当によい人は生まれるものですよ。それが多く生まれてくれりゃあよいんですけど、それほど生まれてくれなかったら、現在ある人でやっていくより仕方ない。学校とは無関係です 大体、学校は学問を教えるところと思ってるのが間違いですよ。

 学校とは「誠心誠意」教えるところです。その「誠心誠意」というところが、できが悪くても母親ならかなりやれるんです。人とは何かといえば、「時」ですよ で、学校教育は「時」と「時」との接触ですよ。混じり気のない「時」がよいんです、濁っていない「時」がよいんです。ある瞬間あって、児童という「時」と先生という「時」とが交錯するんです。それが教育です。おわかりになりましたか。

(※解説11)

 皆さんはご存知ないかも知れないが、当時の日教組は自分達の生活を守るという名のもとに、みずからの授業を生徒達の自習の時間にして、組合運動に熱中する先生がいたのである。

 こういうのを「第1の心」の「自己中心」というのだろうが、そこには岡のいう「第2の心」の「誠心誠意」が欠けらもないと岡はいうのである。だから母親の方が余程ましだというのである。

 私が尊敬する高校の恩師、内田八朗は著書「教育に生きる」の中でこういっている。「たとえ妻が病に伏していても、我が児が家で泣いていても、生徒達のためにともかく学校へ足を運ぶのが教師である。」岡はこういうのを教育者としての「誠心誠意」といいたいのだろう。

 猶、ここで岡は唯識論の世界観にもとづいて、人とは過去の集積である「第8識、時」であるといっているが、これは後々には無量の情緒の集積である「第10識、真情」であるという風に変わってくるのである。それが証拠に、情の世界の特徴である「混じり気のない」「濁っていない」という表現をここでは使っているから。

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