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 2016.2.21 up

岡潔講演録(17)


岡潔 「1969年の質疑応答」の解説

 

横山 賢二

はじめに

 解説「人類自滅の危機」から5回にわたって、岡の1969年の未発表の講演録をご紹介してきたのだが、今回はその1969年の締めくくりとして、それら講演での質疑応答を抜粋の形で各分野にわたってご紹介してみたい。

 そこで行われている質疑応答は、今我々がいくら岡に直下に質問してみたいと思っても叶わぬ話であるから、当時の人々が現在の我々にかわって岡に質問してくれているようなものである。

 それらのやり取りは50年近くも前のものではあるが、そもそも岡の思想は広い視野と長い時間的スケールの中で生まれたものであるから、100年や200年で色褪せるような代物ではないのであって、これら岡の言葉は今後我々が長い年月をかけて吟味していかなければならないものなのである。

 さて話は変わるが、今回は私を育んでくれた両親について少し触れてみたい。

 私は高知市で横山耕作、鶴子の長男として昭和26年(1951年)に生まれた。当時はいくら繁栄を誇った昭和といっても、庶民はまだまだ貧しい時代であって、私の両親の結婚生活は6畳1間に「箸と茶碗」という誠に慎ましい生活から始まったということである。

 父は優しくも真面目一徹の国鉄マンで、休みの日にはいつも私とよく遊んでくれたし、母は私に口移しで食事を与えてくれるほど貧しいながらも愛情豊かに私を育ててくれた。今から思えば岡の強調する「情」というものを、私は幼少の頃からタップリと注入されたように思う。

 また、母はまるで「鉄人」で、87歳になる現在でも畑仕事や家事全般に奮闘してくれているが、父は岡が日本の転換点がくるといった2011年に亡くなった。しかし、その葬儀の日に私はある出版社から連絡を受け取った。私が兼ねてより密かに出版を掛け合っていた、岡の復刻版「日本民族の危機」の出版が遂にとうとう決まったと。

 父はあの世へ行って初めて「岡潔思想研究会」の存在意義がわかったと、微かにサインを送ってくれたものと私は思っている。

目  次(下の項目をクリックしてお読み下さい)

【1】 軍備と核文明

【2】 戦後の日本の政治

【3】 皇室と国旗

【4】 都市と田舎

【5】 (れい)(がく)

【6】 月とか宇宙とか

【7】 一を知れば一を行う

【8】 星への移住

【9】 民主主義の破綻

【10】財産の切り売り

【11】学校とは誠心誠意

【12】都市大学

【13】ガンの原因

【14】人類の夜明け

【15】醜悪極まる間違い

【16】戦国の三英雄

【17】現世教

【18】音楽の基準

【19】国語審議会

【20】民族的集団生活

【21】無様なおでき

【22】精神分裂症

【23】岡の嘆き

【24】岡のカミナリ

【25】日本民族の定義

【26】本居宣長のあはれ

【27】中国は知

【28】天機漏らすべからず

【29】仏教と禅宗

【30】季節感は実感

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