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2016.2.2up

岡潔講演録(17)


「1969年の質疑応答」

【19】 国語審議会

(質問) それから、国語審議会というのがありますね。

(岡) 馬鹿な奴等の寄り合いだ。相手にせんことに決めた。

(質問) 益々、やっぱり漢字は・・・

(岡) 僕はあそこへ行って腹立てて、つまり、これでは日本の子供は日本歴史を読むことができない、日本字を教えないから。それで吉田茂にお前、臣茂といっているが、日本歴史を教えないなら日本字も教えないなら、皇統を如何にして護持するのかと最後に書いて、そして血を吐いた。血がパッと飛んで、便所の柱にかかった。腹立てるとそうなる。胃を切って、なんか、20何人かに輸血してもらって命拾いをした。それが国語審議会です。

 あれは日本の青年を木の又から生まれたようにする為に、進駐軍がやったことを墨守してる日本語が読めないん この、秦の始皇帝は本を焼いて学者を穴に埋めたんだが、進駐軍は日本語そのものを焼いたんです。それを今、文部省その他が焼き続けてる。そういって来てから、僕はもう胃を切ってから大分になる。後はもう相手にせんことに決めた。

(※解説19)

 国語審議会というと当時の日本を代表する知識人の集まりであるが、その権威ある会を「馬鹿な奴等の寄り合いだ」というのだから、岡のあきれはてた心境もわかるというものである。

 当時はまだまだ知識人といえども本気で、日本語をローマ字で表記しようかなどという意見もあった時代であるが、それを実行されていたらこの豊かで美しい日本語ばかりではなく、人類の自滅を止める可能性のある日本文明自体も、消滅の道をたどっていたのかも知れない。

 それを阻止するために岡は吐血するほど心痛し、外から見れば気狂いのごとく行動したのであって、当時の坂田文相ばかりではなく先の総理大臣、吉田茂にも必死に手紙を書いたということがここでは伺い知れるのである。

 猶、先日高知の勉強会のメンバーと奈良の岡家を訪ねてきたのだが、その時に岡の吐血したという例の「便所の柱」ばかりではなく、晩年岡みずからが「第1の心(肉体)」と「第2の心」を分離する実験をしたという「浴槽のある風呂場」もしっかりと確認してきたのである。

 今も長男の熙哉さんは奥さんの梅野さんと岡家にお住いなのだが、当時そのままに岡家を残そうと苦心してくれていることが、我々には大変ありがたかったのである。

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