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2016.2.21up

岡潔講演録(17)


「1969年の質疑応答」

【30】 季節感は実感

(岡) きみ、実感て何かわかってんのか。

(質問) いや、あのうはい、済みません。そういう言葉、僕もちょっとね、言葉をうまいこと使い切れないもんですからね。

(岡) 構わんけど。実感て、わかってるんかなーと思うから。一例を挙げてごらん、何が実感だか。

(質問) はい。やっぱりあのう先生、どういうんですか、悲しいと思った時に涙が出るとか。

(岡) そんなの実感じゃない 全然わかってないんだから。

(質問) わかってないと思いますか。

(岡) それは感情だ。あのう、わかってやせんのにわかったと思うのが一番いけない。僕の本をわかってないとこをわかってないとして読みなさい。そしたら、わかって来ることもあるから。季節感は実感ですだから僕は「秋風が吹けば、もの悲しい」と書いたんです。あれは実感です、私の入れようがない。涙はうれしい時に出るんです これが頭頂葉。悲しい時に出れば前頭葉。それで見わけたらいい。うれしかったら涙が出る。ところがここ(前頭葉)におったら、悲しかったら涙が出る。

(※解説30)

 仲々この2人のやりとりが掛合漫才のようでおもしろい。岡は容赦なくこの質問者に突っ込んでいく。質問者はタジタジである。そして、岡がよくいう「あなた方は私が思っているようには決してわかってくれない」ということを白日のもとに証明されるのである。しかし、このようにおもしろい録音がとれたのは、この質問者の多大なる功績である。

 さて、「私が嬉しい 私が悲しい」と「私」が入るのが「感情」であるが、ここで岡がいうように「季節感は実感です。私の入れようがない」のであって、季節感は実は「無私の情」から生まれてくるものなのである。

 だから万葉の歌や芭蕉の俳句に季節感が多いのはこのためだろうし、身近なところでは私の絵の会の大野長一の絵にも研ぎ澄まされた季節感が漂っているのもそのためだろう。

 このようにほとんど全ての日本文化の中にこの季節感が漂っているが、この季節感という情緒は万年単位でないと培われないものなのであって、これが日本文化の伝統を根底から支えているものなのである。

 更にまた、「僕の本をわかってないとこをわかってないとして読みなさい」というところは岡を理解する上で非常に大事である。この誠実さ謙虚さがなければ、岡は決してわからないのである。

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