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2016.2.21up

岡潔講演録(17)


「1969年の質疑応答」

【29】 仏教と禅宗

(質問) 仏教といったら自我をなくしてしまうという、まあ漠然とそういう風に感じるんですけども、どういうんですか、言葉の力でそういうことが感じられるもんでしょうか。

(岡) ええ、何聞きたいの。

(質問) はい。例えば仏教そのものをね、僕は勉強してないからはっきりはわからないんですけどね、自我というものを認めずにね、なくしてしまうということなんですね。

(岡) そうだね。

(質問) それはね、言葉でいったらそういうことなんですけどもね。

(岡) 仏教はその言葉でいってたことあるかいな。

(質問) いや、あのう、そういうことは・・・

(岡) ないだろう。

(質問) はい。

(岡) その言葉でいったら病気じゃない。

(質問) はい、そういうことです。

(岡) 仏教はそういやいいのを、そういわんから人にわかりにくいんだね。

(質問) で、たとえば禅宗なんかでもね、言葉を用いずに座ってるってことによって自我をなくすってことをして行く訳なんですが。

(岡) 非常に下手な方法だ。

(質問) で、そういう方法ですね、下手な方法だと僕も思うんですけども、非常に何か要領の悪いやり方だと思うんです。要領の悪いといういい方はちょっと・・・

(岡) 要領と違って、何を頼るべきかを見定めてないのです。原始的だね。

(※解説29)

 ここもまた岡が最もよく学んだ仏教の批判であるが、その指摘はまことに鋭い。いわれてみれば成程、目から鱗である。

 大体、仏教の修行方法を岡のように、自我(第1の心)と真我(第2の心)との対比によって説明しているものを私はあまり他に見たことがないが、ここにあるように「仏教はそういわんから人にわかりにくいんだね」とはなるほど至言である。

 また、禅宗が新興宗教以外では最もポピュラーではないかと思うのだが、それさえも「何を頼るべきかを見定めてないのです。原始的だね」と岡はいう。

 それはなぜかというと以前にも少し触れたが、禅宗はもっぱら難行苦行の「意志的努力」に修行の重点をおいていて、「そんなことしても何にもならないのです」と岡は断言する。いわゆる我々が嫌う「宗教臭さ」とは、この「意志的努力」に重点をおくことに由来するのではないだろうか。

 「意志的努力」に重点をおくということは、「第2の心」の入口はアラヤ識(第8識)といって主に「意志の世界」であるから、「第2の心」を知っている仏教はそのアラヤ識(第8識)が心の根底だと思っている何よりの証拠ではないだろうか。

 しかし、岡のいうように人の心の根底は「情(第10識)」であるから、その「情」を豊かに美しくすることによって、それに乗っかっている「知」も「意」もおのずから整えられるのである。これが「何を頼るべきか」の岡の回答であって、非常にシンプルではあるが、これが20世紀に発見された人類共通の「心の原理」といえるものなのである。

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