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2015.2.14up

岡潔講演録(17)


「1969年の質疑応答」

【23】 岡の嘆き

(質問) 先生は今までの長い人生の中で、一番自分の弱さというものを感じたことがおありですか。

(岡) ありません。私は日本が滅びなければ良いそれ以外なにも考えてやしない。弱さも強さもない 大体、「自分の」ってものがない

(質問) 今までに一番強く感じたことというのは。

(岡) ありません。この、日本は心配だって書くんです、本にね。そうすると心暖ったまる思いっちゅうような手紙をもらうと、そりゃあ無力だなあと思いますよ。思いますけど仕様ない、それでもやっぱり日本は心配だと書かなきゃ。そしたら心暖ったまる思いっちゅう手紙もらう。それしかし、仕様ないじゃないですか。

(質問) 特にお聞きしたいのは、先生の私達くらいの年代の時に、人生というものをどのようにお考えになって今まで歩んでいらっしゃったか・・・

(岡) えーと、高校のどれくらい。(笑) 大学ですか。

(質問) 24です。(笑)

(岡) 僕はその頃、まだ数学の研究のことばかり考えてたでしょう。どうにか自分にもできそうだと思って、数学へ変わったのが大学2年だから。いやあ、フランスへ洋行しようと思って、数え年29の時、シンガポールへ行ってひどく懐かしかった。それで数学の研究なんていうのは、そんなに第一義的に取るべきものではないんだと初めてわかったんです。あなた方の頃はまだ数学の研究ばかり考えてたでしょう。

(※解説23)

 岡の晩年の最大の「嘆き」がここにある。日本人にいくら説いても、「警鐘」と受け取ってくれないのである。

 岡の講話をよく聞きにくるある人に、岡は何度も何度も同じ内容の話をしたところ、ある日突然その人の顔が「苦渋の表情」に変わったとのことである。その人はその時、やっとわかったのである。

 そういう日本人に岡は晩年、倦まず絶ゆまず「春雨」が降りつづくように説きつづけたのであるが、それは「言葉を残しておけば何とかなる」という確信が岡にはあったからである。

 更にまた、岡の専門の「数学」への本音がここでは語られている。既に29才の時シンガポールの浜辺で「日本民族は常住にして変易なし」という天啓を受け、「数学は第1義的に取るべきではない」と悟ったという岡の晩年の証言である。

 岡は実際60才の中場まで数学の論文を発表してきていたのだが、その心理の背後にはこういう思惑が隠されていたのであって、70才台に入ってその確信はより鮮明となり、「今や滅亡寸前の人類は、数学をやっている暇はない」という発言にまで発展するのである。

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