「創造の視座」
【3】 第2の心
人には第2の心がある。この心は大脳頭頂葉に宿っている。この心は無私です。私がない。私というものを入れなくても働くし、また私というものを入れようと思っても入れようがない。この心のわかり方は、意識を通さない。直下にわかる。
西洋人はこの心、第2の心のあることを知らないのですが、東洋人は、西洋かぶれして忘れてさえいなければ、だれでもほのかには第2の心のあることを知っている。日本人はとりわけよく知っているんです。
秋風が吹く、そうするともの悲しい。芭蕉は「秋風は ものいわぬ子も 涙にて」、そういっています。秋風さえ吹けば、必ずピアノの同じキーを押したように、もの悲しさという音色を奏でる。だから、この心は無私の心です。
また、漱石に「こころ」という標題の小説がある。ここでいっている「こころ」ということば、この「こころ」もまた無私の心です。こんなふうに日本人は第2の心の世界に住んでいる。自然にも、人の世にも、至るところ第2の心が満ち満ちている。その中に住んでいる。仏教は第2の心を真の自分だといっています、これを「真我」という。
ところで、道元禅師は「本来の面目」と題して「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷()しかりけり」こういう歌をよんでいる。本来の面目といえば、真我という意味です。
ところで、この歌を注意して読んでみましても「春は花 夏ほととぎす
秋は月 冬雪さえて 冷()しかりけり」としか書いてない。どこにも自分というもののことは書いてない。これは、第2の心は意識を通してみれば姿が見えない。どこにもないとしか思えない。それでこの真我の姿を「無」というのです。
また、この真我は、真我の内容を「空」というのです。「春は花
夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」それが自分だといえる。自分は「空」です。その姿は「無」ですね。この第2の心のあることを知っているか、いないか、それによって東洋と西洋の著しい違いが出てくる。
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