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2016.04.09up

岡潔講演録(18)


「創造の視座」

【4】 万葉の歌

 日本は、明治以前と以後とでたいへん変わっているのです。明治以後の日本は、西洋の思想をとり入れ、その中に住んでいると申しました。日本語も、実質的には西洋の言葉になってしまっている。

 終戦前、それもだいぶん前、物理の寺田先生がまだ理研をやっておられた頃の話ですが、その頃ドイツにオットー・ラポルテという理論物理学者がいた。まだ30前だけれども、スぺクトル分析でたいへんよい仕事をした。それで理研はこれを招聘(しょうへい)した。ラポルテ氏は寺田先生の教室へ入った。

 ところで、ここは俳句が盛んでした。みんな寄って俳句というものを教えた。そうして鎌倉へ旅行した。そうすると、ラポルテ氏は帰ってきて、みんなに俳句をよんだといって示した。その俳句が「鎌倉に鶴がたくさんおりました」。これではどうにも仕方がない。まるで俳句にならない。そう思うでしょう。これは欧米語ですね。

 ところが、箱根の大涌谷に斎藤茂吉の歌碑が立っている。そこに刻んである歌は「おのずからさびしくもあるか 夕暮れて 雲は大きく谷に沈みぬ」こういうのです。使ってある言葉は一見万葉の言葉です。ところが、その調子は非常に弱々しくて、万葉とは似てもつかない。

 万葉は、こんな調子です。「たまきはる 宇智(うち)大野(おおぬ)に馬()めて 朝ふますらむ その草深野」これは舒明(じょめい)天皇が宇智郡の野で狩をなさったとき、その皇后か皇女かが天皇の狩を思うておよみになった歌で「たまきはる」は宇智の枕ことばです。この草深い野の朝露のたまっているところを馬が並んでパッと走っている、いかにも馬が走っているという感じがする。

 この強い調子に比べて斎藤茂吉の歌はなぜ弱々しいのだろうかと思ってみますと、斎藤茂吉の歌の骨格は「雲は谷に沈みぬ」と、それだけですね。自他対立している。自分はここに立っている。向こうで雲が谷に沈んだ。それに「大きく」という形容詞をつけ、「さびしくもあるか」と自画自讃しただけ。

 骨格は「雲が谷に沈んだ」だけです。「鎌倉に鶴がたくさんおりました」と同じなんです。そう思ってもう一度中皇女命(なかちすめらひめみこ)の歌を見ますと「たまきはる 宇智の大野に 馬並めて 朝ふますらむ その草深野」には主格というものがないんですね。これほど明治以前の日本語と明治以後の日本語とは違っている。

(※解説4)

 和歌や俳句でも「第1の心」で詠んだものと、「第2の心」で詠んだものと2つあるという岡の指摘である。

 岡はその見方で万葉の歌と斎藤茂吉の歌とを比較しているのだが、それによると今一般に評価が高い正岡子規のいわゆる「写生句」と呼ばれるものも、「第1の心」から生まれたものということになりそうである。

 それに関して「万葉の歌には主格がない」と岡はいっているが、「主格がない」とは「視点がない」といってもよいかも知れない。人と自然が対立して「遠近法」が使われた絵画のように、ある一点に「視点」を定めて自然を見た「写生句」と、「主格がない」と岡のいう万葉の歌とは全く別物なのである。

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