「創造の視座」
【5】 自然は映像
仏教は明治以前の言葉で述べてある。それで明治以後の人にはわからんのですね。ところが山崎弁栄上人は大正9年になくなった。それで明治以後の日本語でいわれた。あなた方きっと意外にお思いになるだろうと思うのですが、仏教は昔からそういってたんです。
弁栄上人、どういっておられるかといいますと、自然は映像である。映像といえばテレビのようなもの、この映像は第2の心の世界の深部—深いところから映写されているのである。自然には阻害性というものがある。つまり自然はテレビと違って、堅さとか、抵抗とかいう阻害性がある。
だから映像とは受け取れない。そういう人があるかもしれないが、人に知と意志との2つの属性があるように、第2の心の世界にも知と意志との2属性がある。その知があらわれて、色、形、音、匂い、味、そういうものになる。意志があらわれて阻害性となる。で、やはり阻害性はあっても、それは映像である。そんなふうに注釈しておられます。
で、こういう西洋の言葉で述べてもらって、仏教はそんなことをいっていたのかと思って、それまでのものを聞き直してみますと禅では五蘊皆空唯有識心、こういうことをいっております。
どういう意味であるかというと、このからだも空である、第1の心も空である、そういっているのです。「空」というのは仮象-仮の姿である、ないものである、あると思うだけである。映像といっても同じことですね。ただ第2の心だけがあるのだ。こういっているのです。
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