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2016.04.09up

岡潔講演録(18)


「創造の視座」

【5】 自然は映像

 仏教は明治以前の言葉で述べてある。それで明治以後の人にはわからんのですね。ところが山崎弁栄上人は大正9年になくなった。それで明治以後の日本語でいわれた。あなた方きっと意外にお思いになるだろうと思うのですが、仏教は昔からそういってたんです。

 弁栄上人、どういっておられるかといいますと、自然は映像である。映像といえばテレビのようなもの、この映像は第2の心の世界の深部—深いところから映写されているのである。自然には阻害性というものがある。つまり自然はテレビと違って、堅さとか、抵抗とかいう阻害性がある。

 だから映像とは受け取れない。そういう人があるかもしれないが、人に知と意志との2つの属性があるように、第2の心の世界にも知と意志との2属性がある。その知があらわれて、色、形、音、匂い、味、そういうものになる。意志があらわれて阻害性となる。で、やはり阻害性はあっても、それは映像である。そんなふうに注釈しておられます。

 で、こういう西洋の言葉で述べてもらって、仏教はそんなことをいっていたのかと思って、それまでのものを聞き直してみますと禅では五蘊皆空唯有識心(ごうんかいくうゆいうしきしん)、こういうことをいっております。

 どういう意味であるかというと、このからだも空である、第1の心も空である、そういっているのです。「空」というのは仮象-仮の姿である、ないものである、あると思うだけである。映像といっても同じことですね。ただ第2の心だけがあるのだ。こういっているのです。

(※解説5)

 弁栄上人の「無辺光」は明治の文語体で書かれていて既に相当難解なのだが、岡はそれを現代風に咀嚼して西洋流の世界観に翻訳してくれているのであって、とてもそうでなければ「無辺光」が何をいい、「仏教」が何をいっているのかということは、今の我々にはそう簡単にわかる訳がないのである。

 仏教だけではない。岡が実際やってくれているように、学問、科学、芸術、宗教等の全てのものの位置づけは、1人の大天才の凄じいばかりの「直観」に待たなければ不可能なのである。(大円鏡智)

 猶、岡は「第2の心の世界には知と意志の2属性がある」といっているが、私はその「知」が「法則」であり、その「意志」が「エネルギー」であると解釈している。

 ただここでは岡はまだ、仏教哲学にたよっていて「情の哲学」が完成されていないため、「情の属性」のことが欠落しているようである。自然には「情の属性」として「情緒」があるのではないのか。その「情緒」は「法則」や「エネルギー」よりも更に自然の本質なのである。そのことは「情の民族」である日本人でなければ、とても気づかないところではないだろうか。

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