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2016.04.09up

岡潔講演録(18)


「創造の視座」

【6】 仏教の空

 また、般若心経というお経がある。仏教の各宗各派に広く使われ、読まれている。この般若心経は五蘊皆空ということを繰り返し繰り返しいっているから、五蘊皆空の内容がひどくよくわかる。

 その経文によって五蘊皆空とはどういうことをいっているかとみますと、これは自然は空である。からだも空である。第1の心も空である。こういっているんです。禅で五蘊皆空唯有識心というと、第1の心も入っているようにみえる。だけれども、そこもうひとつはっきりしません。

 般若心経は、第1の心が空であるというのに最も力を注いでいる。だから、般若心経は自然もからだも第1の心も空であると、そういっていることが非常によくわかります。空とはひっきょう映像である。あると思うだけである。そういうことですね。

 釈尊はそれじゃどうか、仏教のはじまりの頃はどうかといいますと、釈尊の時代は遠くてよくわかりませんが、釈尊は「五官を閉じて修行せよ」と教えたと聞いています。五官を開けて自然を見るとだまされてしまうから、閉じて修行せよといったのは、やはり自然というものは仮象である、そう思っていたということが察せられますね。

 かように仏教は、自然は仮象であると、そういっている。東洋で一番おしゃべりなのは仏教です。仏教はインドで生まれて、おしゃべりです。その仏教が自然は空である。そういっている。映像であるといっている。空という意味をよく聞いてみますと、映像であるといっている。

(※解説6)

 ここは仏教を学んだことのある人ならば、大概うなずかれるところではないだろうか。なるほど「般若心経」は煎じつめれば、こんな単純なことをいっていたのかと我々は直ぐに納得しそうである。

 さて、我々は西洋の伝統である「物質主義」にならって、客観的な物質としての自然があると決めてかかっている。しかし、そこには東洋のいわゆる「認識論」が欠落しているのである。

 ここは非常に難しいところではあるが、我々は外界を見てその結果、各人の頭の中(前頭葉)に外界をイメージ(観念)することができるから、そのイメージどうりの物質としての自然があると思うのである。我々の日常をよくよく見てみると、そうなっているのではないだろうか。

 この「認識論」が西洋の物質主義にはないのである。このイメージ(観念)するという心の働きがなくても、それとは無関係に物質としての自然は客観的に存在すると思っているのである。

 しかし、各人の外界のイメージは少しずつ違っているし、1つとして同じイメージの外界など存在しないということもまた厳然とした事実ではないだろうか。そうするとイメージ(観念)が主で、外界は従であるということになる。これが正しい順序である。

 そうするとこれを極論すれば、イメージ(観念)するという直観が働かなければ外界は存在しないことになりはしないか。岡はこれを「映像」といい、仏教は「空」というのである。

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