(※解説6)
ここは仏教を学んだことのある人ならば、大概うなずかれるところではないだろうか。なるほど「般若心経」は煎じつめれば、こんな単純なことをいっていたのかと我々は直ぐに納得しそうである。
さて、我々は西洋の伝統である「物質主義」にならって、客観的な物質としての自然があると決めてかかっている。しかし、そこには東洋のいわゆる「認識論」が欠落しているのである。
ここは非常に難しいところではあるが、我々は外界を見てその結果、各人の頭の中(前頭葉)に外界をイメージ(観念)することができるから、そのイメージどうりの物質としての自然があると思うのである。我々の日常をよくよく見てみると、そうなっているのではないだろうか。
この「認識論」が西洋の物質主義にはないのである。このイメージ(観念)するという心の働きがなくても、それとは無関係に物質としての自然は客観的に存在すると思っているのである。
しかし、各人の外界のイメージは少しずつ違っているし、1つとして同じイメージの外界など存在しないということもまた厳然とした事実ではないだろうか。そうするとイメージ(観念)が主で、外界は従であるということになる。これが正しい順序である。
そうするとこれを極論すれば、イメージ(観念)するという直観が働かなければ外界は存在しないことになりはしないか。岡はこれを「映像」といい、仏教は「空」というのである。
Back
Next
岡潔講演録(18)創造の視座 topへ
岡潔講演録 topへ
|