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2016.04.09up

岡潔講演録(18)


「創造の視座」

【8】 実数の全体

 そうすると、時間、空間というものは存在するのかという問題が出てきます。この問題は実数の全体というものが存在するのかという問題に帰着します。ところで、その実数の全体というものが存在するということを証明できると思っている真の数学者は、もはや1人もいない。こういうことを聞くと、不思議にお思いになるでしょう。実数の全体というものが存在するということがいえなければ数学というものが存在するとはいえない。

 そうすると、今日の数学者は、数学というものの存在が未来永劫証明できないと思いながら数学しているのだということになります。どうすれば、そういう不思議なことができるのだろう、こういう疑問が派生します。この疑問を解明するには、今日大学で実数をどんなふうに教えているかを見ればよろしい。

 黒板に横に1線を引く、そしてこれは直線ですという。そのまん中に点を1つ打つ。そしてこれはゼロの表現ですという。その右側に第2の点を打つ。そうしてこれは1の表現ですという。次にその左右に等間隔に無制限に点を打つ。そうして右側のものが2,3等の表現である。左側のものがマイナス1,マイナス2等の表現ですという。

 次にその各区間を10等分する。次にその各小区間をさらに10等分する。これを重ねる。分点の数はだんだんふえていく。そうしてこれが小数というものの表現ですという。最後にその極限を考える。そうしてこれが実数の全体というものの表現です。こういう。

 それで学生は実数の全体というものは表現できるとしか思えない。それで実数の全体というものは存在しているとしか思えない。こんなふうなわけです。これが実数の全体というものが存在していると思われている理由です。

(※解説8)

 ここは私のような小学校の算数ぐらいしか分らない者よりは、誰か数学のオーソリティーに解説してもらいたいところであるが、ともかく岡は物事の根底がどうなっているのかを検討することを岡の学問の信条としていて、「時間空間が存在するのか」「実数の全体が存在するのか」「数学が存在するのか」という誰も考えたことのないような非常に大きな問題を提起しているのである。

 そして、数学に関しては岡の晩年の見解は主に3つある。1つ目は例えば当時の数学集団ブルバキーのように、タフな前頭葉を闇雲に克使するだけの数学は、丸で冬枯の野を連想させるようで数学の方向性が間違っている。

 2つ目は、人類がこのように人類自滅の危機に直面している時に、のんきに数学などやっている暇はない。

 3つ目は、岡が晩年「心の世界」の深みにどんどん入っていくと、数学はそんなに深いものではないことがわかってくるのである。大体この3つの理由によって、既にこの1970年頃には岡は数学を捨てているといってもよいのである。

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