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2016.04.09up

岡潔講演録(18)


「創造の視座」

【9】 時空の枠

 この実数の全体というものを内容として、時間というものがあると思っている。またこれによって組み上げて空間というものがあると思っている。だから、結局西洋の学問、思想における時間、空間とは、空間とは見えるからあるとしか思えないものである。時間とは、その空間によって表現できるから、あるとしか思えないもの、つまりひっきょう時間、空間は見えるからあると思っている。

 西洋の学問、思想はすべて時間、空間の枠の中にある。だから、西洋の学問、思想の全体は見えるからあると思っているものである。つまりあるように見えるのである。あるということが言えているのではない。だから、見えているという範囲では、自然科学なんかかなりそのとおりになるのです。月へ着陸するなどということもできる。これは順々に見えますから。そういう浅いところは、そんなふうなんです。

 この第2の心ですが、仏教は第2の心の中には時間も空間もないといっている。時間、空間を越えている。だから、あらゆる時、あらゆる所に遍満するのだ、そういっています。それで西洋は時間、空間の枠の中を得、東洋は時間、空間の枠の外を得る。東洋の本質は時間、空間を越えている。西洋の学問、思想はすべて時間、空間の枠の中にある。だから東洋の思想と西洋の思想と2つの別なものである。矛盾するおそれはない。こんなふうになるんです。

(※解説9)

 ここでは岡は数学の証明のようにして時間空間というものを掘り下げていき、東洋と西洋とを位置づけている。その結果として「東洋思想と西洋思想は2つの別のものである」というのである。これを聞くと我々は「エエッ」と思う。そんなこと今まで考えもしなかったからである。

 これを口に出していったのも岡潔1人だと思うが、岡にこういってもらうと我々の視野が急に広く明るくなったように感じるのである。

 我々日本人はこの極東の島国にいて、ここは世界の思想や文化の坩堝(るつぼ)なのだが、こういう岡の見方を採用すると、そこに流れ込んでいる世界の思想や文化が見事に整理されていくように感じるのである。

 猶、1つ私にとって特に印象的な言葉がある。それは「あるということが言えているのではない」の「言えている」という言葉であるが、私はこの言葉がなぜか非常に印象的でもあり、深く考えさせられたのである。

 岡は「わかる」ということについて、こういう風にいっている。「わかるということは情的にわかっている、つまり口ではいえないがわかっていることを、知的にわかることである。知的にわかれば口でいえるのである」と。

 だから「言えている」ということは「知的にわかること」なのである。しかし、その前に「情的にわかる」ということがなければ一切がはじまらないのであって、その辺のところを岡は「学問の意義は研究の終りにあるのではなく始まりにある」といっている。誠に至言である。情的にわかっているから、研究しようと意欲が湧くのである。

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