「創造の視座」
【11】 唯物主義
しかし、ガリレオのころ西洋人が自然科学をはじめたころは、こう思っていた。物質という不生不滅なものがある。すべての現象の第1原因は物質にある。そうとしか思えなかった。そうとしか思えなかったから、一度もこの仮定については反省を加えたことがない。
これは実に乱暴な仮定です。しかし、一度も反省したことがない。今だってしていないでしょう。だから、これを唯物主義というのですね。この唯物主義だけは破れているでしょう。物質の中にも刹那生滅なものがある。物質という不生不滅なものがあるとはいえなくなった。ところで、私が見てみますと、現在の結果でどう見えるかというと、まず不安定な素粒子群はどこから生まれてきて、どこへ消えていくのかということですが、弁栄上人はそこまでいってられませんが、自然は映像である。第2の心の深みから映写される。
第2の心は先ほどいったとおり浅いところでは時というものがあります。しかし深みに入ると時というものはない。しかし、なお無量の第2の心がある。2つの第2の心は不一不ニといって、1つであって同時に2つという関係だといわれていますが、そういう不一不ニの関係の無量の第2の心がある。しかしさらに深みに入ると、もはやただ1つの第2の心と合一してしまって、これを合の第2の心ということにします。
第2の心の世界の最も深みは、合一したただ1つの第2の心、そこには個々別々ということもなく、時というものもなく、時間、空間などというものはましてない、そういうところ。
そこから映写されているのだ、そういうのですが、私はこの素粒子はそうすると、直接そうとはいっていられませんが、自然は映像であって、その第2の心の世界の深みから映写されているのだ。ということは不安定な素粒子群は第2の心の深みから生まれてきて、またそこへ帰っていっているのだ、そういうふうにとれますね。
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