「創造の視座」
【22】 夢のメカニズム②
ところで、夢ですが、夢は情緒といいましたけれども、夢の中では情緒といっても、非常に完全で、実際夢の中には色はありません。しかし、情緒の色はありますね。また、時間・空間はありません。しかし、広がりというものはありますね。そのほか、いろんな人がそのまま出てくる。いろんなことがいかにもそうらしゅう起こる。それみな情緒といわなければ仕方ないわけです。
中国に「黄老の道」というのがある。黄帝と老子の道ということですが、その老子が天地開闢に先立って「如」というものがあるといっていますが「如」といえば「らしさ」で、夢を見ればいかにも天地開闢に先立って「らしさ」というものが示される。「らしさ」というものすべてを情緒といっているわけですね。
これが前頭葉に達しますと、この第1の心には時間空間というものがありますから、投影されて外界になる。夢はだから外界に投影される前のものだ。外界へ投影される前が夢。夢が外界へ投影されるのです。いかにも自然は仮象であろうという気がする。
これは石原慎太郎さんから聞いた話なんですが、三浦雄一郎という男があってといっていました。ヒマラヤへ登った隊員、スキーのほうの隊長じゃないか。ともかく三浦さんというのがヒマラヤの頂上からスキーで滑り降りようとした。そして滑りはじめた。そしてこれはもう自分はとても助からんと思ったらしい。そのとき夢だと思った。
それが滑って何度も2、3度頭をトン、トン、トンと打ちつけたので、そして人事不省になったのだけども、奇跡的に岩の角でひっかかって止まって死ななかった。そしてすぐ自分に返った。その自分に返ったとき、たいへん自分が懐かしかった。というのです。
これはどういうことかというと、夢の中の自分にまた会えて懐かしかったという意味ですね。だから人生は夢なんです。人には生きようとする盲目的意志がある。仏教はこれを無明と云っているのです。平生は無明のために夢を実在と思っている。
しかし、これはもう助からんと思うでしょう。そうすると、生に対する執着を断つでしょう。そうすると無明がとれるんですね。とれてはしまわないだろうが、ずっと薄くなる。それが夢だとわかるのですね。自分がとても助からんと思ったとき、夢だとわかる。それからもう一度自分に返ったとき、自分がひどく懐かしかったというのは、たいへんおもしろいことだと思う。そんなふうに仏教は、人生は夢だと教えているんです。
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