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2016.5.29up

岡潔講演録(18)


「創造の視座」 午後の部

【23】 目覚めた人

 人は眠っている間は、肉体を持つことが生きることだと思う。それで必ず肉体を持つのだといいます。普通の肉体と肉体の間では、天眼によってでなければ見えないようなそういう繊細な肉体を持つ。こういう人を中有というのだ、仏教はそういっています。

 ともかく眠っている間は必ず肉体を持つ。しかし、目覚めると肉体を持つことも、持たないこともできる。持たなければ第2の心だけになる。これは時間・空間を越えている。だから、もちろん目では見えない。そういわれています。

 坂本龍馬は死んで肉体を持たない目覚めた人になった。それで日露戦争のとき皇后陛下の夢枕に立って、日本はこの戦争に必ず勝ちますから、天皇陛下にあまりご心配をなさらないように申し上げてください。そう皇后陛下に申し上げたといわれています。

 目覚めると、第2の心が自分である。2つの第2の心は不一不ニといって、1つではないが2つでもない。自然は第2の心、他人も第2の心、それで自然は自分ではないが他人でもない。またひとも自分ではないが他人でもない。そんなふうに思う。

 それで目覚めた人は、花を見れば花が笑みかけていると思い、鳥を聞けば鳥が話しかけていると思う。行基菩薩は「ほろほろとなく山鳥の声聞けば父かとぞ思う母かとぞ思う」、つまり過去世の父や母は山鳥になって鳴いているのだと、そう思ったという歌です。

 また、人が喜んでいればうれしく人が悲しんでおれば悲しく、みんなのために働くことに無上の幸福を感じ疑いなんか起こらない。目覚めるとそうなる。これが人本然の心の姿です。

(※解説23)

 ここから休憩をはさんで午後の部に入っていくのだが、岡の基本理念である「目覚めた人」の定義がここに示されている。

 この坂本龍馬の逸話だが、これは司馬遼太郎「坂の上の雲」に紹介されていて、岡は龍馬を「目覚めた人」の典型としているのだが、実はこの後岡の境地が更に深まるとその龍馬の位置づけも少し変わってくる。

 岡は「目覚めた人」を更に「天つ神」と「国つ神」とに別ける。日本の行くすえを広い視野と長い時間的スケールで見詰め、現在ではなく将来の日本のために働く人を「天つ神」。

 一方、日本の危機的状況を見て、その現状を打開するために働く人を「国つ神」と岡は見るのである。

 そうすると西洋の執拗な侵略を察して、明治維新に働いた坂本龍馬は「国つ神」ということになり、日本や世界の将来を見据え人知れず「日本哲学」を残した岡潔は、間違いなく「天つ神」ということになるのである。

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