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2016.5.29up

岡潔講演録(18)


「創造の視座」

【27】 西洋人の創造

 創造は無心になってやるんですね。無心になってやれば、童心の季節に返って自我というものはない。童心の季節においてやるものです。ところが西洋人は時間空間というものの枠がどうも離れられないらしい。

 時間空間の枠が出来るのは生後第4ヵ年です。童心の季節がすんで後の1年の間に時間空間という枠が出来る。ここでやるんだったら無心に研究するということはできないだろう。ここでやるんだったら没頭するというぐらいが精一杯だろう。そういうことになります。

 で、いろいろ総合しまして、私は童心の季節で数学上の創造ということをした。しかし西洋人は自我発現の季節の第1年、すなわち時間空間というもののあるところでやっているのだ、こういう結論がつくんです。それで創造という点についても、日本人の創造力というものは欧米人のものよりも優れているのだということを知って、自信を持っていただきたい。

 ただポアンカレーもいっておりますとおり、理性的努力なしには創造ということはあり得ない。この理性的努力と創造との隔たりですが、それは理性的努力なしには創造ということなく、また理性的努力があってから創造というものが起こるまでの間は、かなり間があくのが普通だ。

 ポアンカレー、第3番目にあげている。その特徴は確かにそのとおりですが、私の場合には、長くても、理性的努力から数学上の発見が起こったまでの期間は1ト月ぐらいです。ところがポアンカレーの場合は、1年か1年半はむしろ普通であるといっております。だから、この点から考えても、西洋人の創造は非常に潜在識的な部分が多いのだろうということが想像できる。

(※解説27)

 「日本人の創造力というものは欧米人のものより優れている」。これを岡にいってもらうだけで、我々はどれほど勇気づけられるかわからない。これは岡の専門の数学研究の中からわかってきたことで、科学の最先端の分野でこのことがいえるのであるから、我々はもっと自信を持ってもよいのである。

 しかし、いくら今日の最先端の科学者や知識人でも、この岡の発言を素直に額面どうり受けいれることはまだまだ難しいのではないだろうか。実際、自信を持ってそれがいえるのは、日本広しといえどもまだ岡潔1人ぐらいのものだからである。

 また、「無心」と「没頭」の違いが出てきているのだが、私にはなにか「無心」が精神統一に、「没頭」が精神集中に当るような気がするのである。

 岡はこういっている。「精神集中をつづけていると、いつしか努力感を感じない精神統一になっている」と。この精神集中の方は、もっぱら「前頭葉の意志力」を使うように私は思うのである。

 その精神集中(没頭)のよい例としてはニュートンである。ニュートンは考えに耽るあまり、腕時計とタマゴをまちがえて鍋の中に入れてしまったという逸話が残っている。

 しかし、「無心」とは「没頭」よりさらに純度が高く「前頭葉の意志力」は使わないから、なにか子供の世界のように全ての約束事を捨て去り、老子のいう「無為自然」に生きることができるのである。胡蘭成が岡を激賞した理由もそこにある。しかし却って岡のように、社会から変人扱いされ兼ねないのも事実である。

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