「創造の視座」
【30】 東洋の天地創造②
こういうふうに、つまりただ1つの心に一大意志力が働くと、これに四智が働き情緖の世界ができ、これがだんだん深まる。その世界の内容がだんだん深まるというふうになる。これが心のふるさと。
次に、分別するということがあります。分別するというのは、水の流れるがごとくであったのが、滞る渋滞する、これを分別するという。なぜ分別するということが起こるかというと、やはり一大意志力が働き続けているからだ。で、無量の心がありまして、その心の1つが自分というものを分別する。
そうすると、それまではただ無量の心であったものが、これが自分という心だと思うようになる。こうなった心を個というのですね、あるいは衆生という。かようにしてその無量の心が自分というものを分別して、個あるいは衆生というものができる。これが一切生物の中核だという。
次に、懐かしさという情緒があって、それがだんだん深まるということだけがある。個がそれを分別する。そうすると、現在というものができる。そしてこれを境にして過去と未来とができる。
実際懐かしさに対して、過去と未来とはまるで違いますね。現在ができるからそれを境にして過去と未来とができる。かように現在、過去、未来という時ができる。二度分別すると、時というものができる。ここまでが第2の心です。
次に、第2の心には、時間空間というものがありません。しかし、広がりというものがある。情緖の世界というものがあるから、大円鏡智が働いている。だから空間的広がりというものがある。また時の過去は、過去は過ぎ行くという性質を持っているから、時間的広がりというものがある。
かように性質としてあった時間的、空間的の広がり、これを分別する。そうすると時間とか空間とかいう計量ができる。そうすると、もはやその個は時間空間の枠の中に閉じ込められてしまう。これを「法我」というのですね。
次に、そうなってから個が再び自分というものを分別する。そうすると、感情とか意欲とかの主人公としての自分というものがあると思う。これを「人我」というのですね。分別を重ねるごとに無明が深くなる。心の闇が深くなると仏教はいっていますが、分別を重ねるごとに、ものが生々発展するともいえる。この生々発展の頂点において成所作智が働く。そうすると自然ができるのだ。そんなふうにいっているのです。
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