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2016.5.29up

岡潔講演録(18)


「創造の視座」

【30】 東洋の天地創造②

 こういうふうに、つまりただ1つの心に一大意志力が働くと、これに四智が働き情緖の世界ができ、これがだんだん深まる。その世界の内容がだんだん深まるというふうになる。これが心のふるさと。

 次に、分別するということがあります。分別するというのは、水の流れるがごとくであったのが、滞る渋滞する、これを分別するという。なぜ分別するということが起こるかというと、やはり一大意志力が働き続けているからだ。で、無量の心がありまして、その心の1つが自分というものを分別する。

 そうすると、それまではただ無量の心であったものが、これが自分という心だと思うようになる。こうなった心を個というのですね、あるいは衆生という。かようにしてその無量の心が自分というものを分別して、個あるいは衆生というものができる。これが一切生物の中核だという。

 次に、懐かしさという情緒があって、それがだんだん深まるということだけがある。個がそれを分別する。そうすると、現在というものができる。そしてこれを境にして過去と未来とができる。

 実際懐かしさに対して、過去と未来とはまるで違いますね。現在ができるからそれを境にして過去と未来とができる。かように現在、過去、未来という時ができる。二度分別すると、時というものができる。ここまでが第2の心です。

 次に、第2の心には、時間空間というものがありません。しかし、広がりというものがある。情緖の世界というものがあるから、大円鏡智が働いている。だから空間的広がりというものがある。また時の過去は、過去は過ぎ行くという性質を持っているから、時間的広がりというものがある。

 かように性質としてあった時間的、空間的の広がり、これを分別する。そうすると時間とか空間とかいう計量ができる。そうすると、もはやその個は時間空間の枠の中に閉じ込められてしまう。これを「法我」というのですね。

 次に、そうなってから個が再び自分というものを分別する。そうすると、感情とか意欲とかの主人公としての自分というものがあると思う。これを「人我」というのですね。分別を重ねるごとに無明が深くなる。心の闇が深くなると仏教はいっていますが、分別を重ねるごとに、ものが生々発展するともいえる。この生々発展の頂点において成所作智が働く。そうすると自然ができるのだ。そんなふうにいっているのです。

(※解説30)

 先に説明したところは「心のふるさと」ができるまでの経過であるが、ここではその上に「第2の心」が生まれ、次に「第1の心」が生まれる生々発展を物語っている。ここは幾らかわかりやすいのではないかと思うのだが、最後に生まれる「第1の心」が今我々が採用している西洋の世界観なのである。

 その「第1の心」の自然科学者が考えている、時間空間の中の物質の世界がここでいう「法我」であり、自分の感情、自分の意欲と「自分」というものが入る世界が仏教でいう「人我」である。

 ともかくここは光明主義の世界観を岡が解釈した非常に難しいところであるから、「心の世界」における東洋の天地創造がどんなものであるか、先ずは一度読んで頂くだけでも十分ではないかと私は思うのである。

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