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2016.06.22up

岡潔講演録(18)


「創造の視座」

【35】 人生の回顧

 私、かぞえ年29のときにフランスに渡ろうというので、シンガポールの埠頭に立ちました。ヤシの大きな木が2、3本斜めに海に突き出ていました。頂きに少しだけ葉がありました。向こうのほうには、伊勢神宮の原型を思わせるような土人の家が2、3軒あって、高い床脚を波に洗わせていた。

 で、私はその景色を見ながら、寄せては返す波の音を聞きいるともなく聞きいっていた。そうすると、何ともしれん強い懐かしさの情に襲われた。しばらく渚にうずくまっていた。どれほどの時間かはしらない。うずくまっていました。

 それ以後私、日本民族というものは、単なる言葉ではなく、ほんとうに存在するのである。常住不易である。その内容は懐かしさだと思うようになりました。

 ところで私、1901年に生まれましたから、数え年29といえば1929年です。それからフランスにおりまして、1932年に満州事変が始まった。国外にあって満州事変にあうのは、まるで戸外にあって暴風雨にあったようなもので、ごうごうたる世界の日本に対する非難がものすごかった。それで私は日本民族の将来が大変心配になった。

 ところが、それ以後日本民族は心配なほうから心配なほうへ歩き続けて、一向にやめない。それでとうとうそれ以後、それ1932年、今年1970年ですから、足かけ39年、私は日本民族を心配するということをやめることができなかった。

 とうとう日本民族が滅びやしないか、何としてでも日本民族の滅亡だけは食いとめようという、その一念以外は何もないようになってしまった。それで私はほんとうは、今は何としてでも日本民族の滅亡を食いとめようという、その一念以外はないのです。

(※解説35)

 ここも岡の人生の岡自身の証言である。一方、私の人生なんてチャランポランで岡の人生には遠く遠く及ばないが、考えてみれば人生なんて単純なもので、人によっては岡がいう「一念以外何もない」ということになるのだろうか。

 岡は29歳の時シンガポールで「日本民族は常住にして変易なし」と電撃的に悟ったのがきっかけで、遂には「何としてでも日本民族の滅亡だけは食い止めたい」との「一念以外はない」といっているが、この私の場合もそれとよく似ていて18歳の時、「岡潔」という人物を知ってからは「何としても岡潔だけは後の世に残したい」との「一念以外はない」のである。

 この「一念」については私の先輩であり、岡の資料を編纂した奈良在住の松澤信夫先生にも更に感じるのであるが、その「一念」の強さは私などの比ではない。なにせ晩年の未発表部分でも全集本30巻にはなるという膨大な資料を、サラリーマンをしながら50年をかけて1人で録音テープを文章化したのであるから、まさに岡の「一念」を受け継いだ、「一念中の一念」であるという外はない。

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