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2016.06.22up

岡潔講演録(18)


「創造の視座」

【36】 自由作文

 もう1人こういうものがありました。これは女性で、小さいときから書道をやったのです。それで書道のことが詳しく書いてある。その後にこう書いてある「どこにでもある、いつでもある、何のへんてつもないものに、ふと心を奪われ可愛いと思う。これが日本人の心ではないでしょうか」、こう書いてある。

 それで私は「さみだれや色紙へぎたる壁の跡」という芭蕉の句を連想した。なるほどこれが日本人の心というものかと教えられた。それで最優をつけたのですが、大体こんなんです。

 これは教育しているものは日本の神々だ、学校ではないということが直ぐおわかりになるでしょう。学校は何もしてやしない。日本の神々が教育した。それで友情というものを教えられた。それから日本人の心、何のへんてつもないものに、ふと心を奪われるという、日本人の心を教えたりしている。

 こんなふうなら学校というものは要らない。学校というものはむしろ日本の神々の教育をじゃましたから、それで3分の1も良がついてしまった。こういうものは頭はもはや使いものにならないと思います。しかし、からだはやっぱり3分の1ぐらいは使えるでしょうから、今の教育以上悪い教育というものはちょっとあり得ないでしょうから、そういう教育をしても、使いものにならないものは9分の1しかないというのなら別に困りゃしない。

 ただ、こんなふうな教育をすると、創造ということはとてもだめだろう。この点だけは少し工夫しなければならないだろう。そんなふうに思いましたね。

(※解説36)

 岡は京都産業大学の学長で、宇宙物理学で有名な荒木俊馬(としま)の要請を受けて、一般教養科目の1つとして「日本民族」と題して講義をすることになったのだが、学生に成績をつけるためには学年末に自由作文を書いてもらうのが常であった。

 たとえ日頃の講義に出席していなくとも、その自由作文さえ出しておけば全員が「良」以上の合格になったのだから、岡の講座に登録する学生は多く、3000人を越えることもあったようである。

 とはいっても、それでなくとも常識とかけはなれた難解な講義であるから、出席者の多いのは学年の初めだけで、学年末に近づくに従って受講者は次第に減り、日頃は50人、否20人を切ることもあったようである。

 しかし、岡にすれば学生に話をすることで自らの境涯を再認識することができ、次の発想の展開に非常に役立つのであるし、他方当時の人々や学生が一体なにを考え、なにを思っているのかを掴む唯一の機会でもあるから、この講義や自由作文は晩年の岡の思想の発展に大いに寄与したのである。

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