「創造の視座」
【37】 教育への警鐘
私、終戦後、奈良の女子大へ就職した。そして、日本は敗戦から立ち直るためには、女性に大いによい子供を育ててもらわなければいけない。そう思った。それで女子大生に、子供をよく育ててくれと頼もうと思った。ところが、人の子には発育の時期というものがある。その時期にそれを教えなければ、時期をはずしていくら教えてもだめである。
私は「春宵十話」という本を10年前に書いたのですが、その前に「人というかぼちゃの生いたち」というものを科学朝日へ書いた。それはどういうことかというと、「かぼちゃはリズミカルにぴょい、ぴょいと大きくなる。ずらずらずらと成長するものではない。人の子供というのもリズミカルに大きくなるので、それに合わせて教育しなければだめである」ということを書いた。
で、ともかく人の子の生い立ちというものには、生まれてすぐ3ヵ年が童心の季節、それから小学校へ行くまでの間が自我発現の季節、それから小学校6年が情緒の季節、それから旧制中学時代、旧制高等学校時代、それぞれ発育が違っている。それに合わせて教育しなければだめだというふうなことを書いたんです。
そうして安心していたんだが、「春宵十話」でそういうことを書きはじめて以来10年ほどになる。その間に幾度も繰返した。ところが一向だれも読んでくれない。教育は、昆虫に幼虫、サナギ、成虫の時期があるように、人の子には発育の季節というものがある。それに合わせて教育しなければ、その季節においてそれを教えなければだめであると、幾度いっても聞いてもらえないのです。
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