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2016.06.22up

岡潔講演録(18)


「創造の視座」

【41】日本民族の足跡①

 天の月読の尊を囲み無量の神々が日本民族を教えはじめた。つまり古事記のはじまりは一体いつごろだろうかということですが、日本には高天が原という伝説がある。暑いときは非常に高いところへ登る。そうすると、高いところは空気が希薄だから、いわゆるエチオピアぼけというふうになる。第1の心がよく働かなくなる。そうすると第2の心がよく働く。

 これはいつごろだろうかというと、最近地球が一番暑くなったのは、今から10万年前、だから高天が原時代というのは、大体10万年前だ。場所はおそらくチベット高原だろう。ところで古事記の始まりというのはいつごろだろう。

 ところが人は暑い時に教えはじめるのがよいか、寒い時に教えはじめるのがいいかといいますと、北原白秋は「雪の降る夜は楽しいペチカ、ペチカ燃えろよ、燃えろよペチカ、昔、昔は燃えろよペチカ」こういっている。いかにもそうだろう。

 寒いときは、いわば溶かした液を結晶させるというのには適しているだろう。つまり形をとらせるには適しているだろうが、教えはじめるには適しない。寒いときが一番はっきり印象に残るものだ。教えはじめるのは一番暑いときがよいだろう。そうするとその前暑かったのは、今から30万年前、こういう見当がつく。

(※解説41)

 質問篇の中でも、ここが最も出色のところなので取り上げてみた。この「日本民族の足跡」は「春宵十話」の中にある「ある想像」からはじまって、次第に詳細により鮮明に描かれていくのだが、この1970年は丁度その中間点の描写であって後に修正される部分もあるが、概略が割と詳細に語られているところでもある。

 しかし、またここも岡の推理力、想像力、構想力が駆使されているところであって、考古学的実証的な根拠は何もないのだが、岡の直観力の賜物という気がするのである。

 さて、この足跡の概略は非常に想像することが難しいのであるが、日本民族は30万年前に他の天体からチベット高原に降り立った。その後の20万年前後は次第に寒くなるに従って暖かいユーラシア大陸の低地各地に分散し、再び熱くなるに従って熱さを避けてその一部(日本民族の主流)は今から10万年前にチベット高原に戻り、高天が原時代を形成した。大体、30万年の日本民族の歴史を大掴みにすると、こういうことになりそうである。

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