「1971年度京都産業大学講義録第6回」
【4】 禅の非思量
あるとき『禅師』が座禅から立ち上がった。それで弟子が聞いた。「何をしてられましたか」と聞いた。そうすると禅師は『個の不思量底を思量する』。まだ誰も考えてないところのひとつのことを考えていたのだ、こんなふうな意味です。そうすると弟子は「個の不思量底、いかんが思量する」と聞いた。
西洋のものと東洋のものとは違いまして、東洋のものを思量すると云うときは、大先達の云ったことをあれこれと考えることに基づく。西洋のものだったら、時間空間という枠の中にはまっていて、五感でわかるものと限ったその区画の中のことです。哲学者といえどもその中で考える。で、こんなものは自分で考えられる。五感と理性とで誰でも考えられる。
しかし東洋のものは総てこれを超えたところのもの。そうすると考えようがない。それで大先達の言葉があれば、それに基づいてあれこれと考えるんだけど、「個の不思量底」と云うのは、まだ誰も考えたことのないところと云うんでしょう。だから「如何が思量する」と云うの、当然です。
そうすると禅師は『非思量』と答えた。この非思量とはどう云う意味かと云えば ― そんなことどうしてわかるかって云えば、自分がやってみればいい。わからないものに、まだわかってないものに、関心を集め続ける。
『Xに関心を集めつづける』
そうすると『Xの内容が段々明らかになって来る』。Xと云うのは、わからないけれども心の中の1つの地点です。「あれっ!」て云う。そこに関心を集め続けるということは、これは『妙観察智』の働きとされている。そうすると内容がだんだんわかって来る。これも妙観察智の働き。
このあとの方の働きを指して弁栄上人は、この智力は『内容を啓示』する働きがあると云ってる。だから、この前お話した位置の決まってない自分、これは1つの真我、真我の一種。これが妙観察智の自分。位置が決まってないっていうのは、いくらでも動かせると云うこと。それをその位置にじっと居させると内容が段々明らかになって来る。こういうわけ。
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