「1971年度京都産業大学講義録第6回」
【5】 西洋の学問
ここで云って置きたいのは、西洋の学問、思想は東洋のものとは全く違う、そのこと。
『西洋の学問』 『東洋の学問』
全く違うと云うこと。第1は対象が、今云った通り、西洋のものは総て時間空間の枠の中にはまっている。五感でわからないものは取り扱わない。これを簡単に『自然科学的自然』と云えばよい。自然科学的自然の中にしかやらない。
哲学といえども、考えるのは考えるのだけれど、この中において考えるということしかしない。カントは、自分は時間空間というものが無かったら考えられない、と云っている。他の人は云っていないが、カントはそのことを自覚じただけまだよく時間空間というものを見たわけですね。まあこうなった。
東洋のものは、この外しかやらない。自然科学的自然 ― こんなん『物質的自然』と云った方がいいなあ。物質的自然の中なんか問題にしない。外しかやらん。まあ、こう違ってる。
ところで、西洋の学問と云うものについて、一番云いたいのは、あなた方は学問学問と云いますが、西洋の学問ですよ。東洋で学問と云えば、言葉は同じですが内容は全く違う。あとで例を申します。西洋で云う学問というものの中に、
『其の存在が実証されたもの』
これが本当にある学問ですが、そんなものが1つでもあると思いますか。
『1つもない』
この実証ですが、これはやはりこの中(物質的自然の中)でやらなきゃ。『理性』までしか使えない。これ以外のものを使ったら実証だと思いません。だから使えない。ところでこの中で、これ、理性だと云えるのは第六によってるでしょう。哲学者が考える時はあれを使ってます。で、五感て、六感ですね、第六感は大脳前頭葉と云う目。この範囲内、これだけで云わなきゃ実証したとは云わない。西洋人にとってはこれしかないんだから。
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