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2016.09.18up

岡潔講演録(20)


「1971年度京都産業大学講義録第6回」

【5】 西洋の学問

 ここで云って置きたいのは、西洋の学問、思想は東洋のものとは全く違う、そのこと。

 『西洋の学問』
 『東洋の学問』

 全く違うと云うこと。第1は対象が、今云った通り、西洋のものは総て時間空間の枠の中にはまっている。五感でわからないものは取り扱わない。これを簡単に『自然科学的自然』と云えばよい。自然科学的自然の中にしかやらない。

 哲学といえども、考えるのは考えるのだけれど、この中において考えるということしかしない。カントは、自分は時間空間というものが無かったら考えられない、と云っている。他の人は云っていないが、カントはそのことを自覚じただけまだよく時間空間というものを見たわけですね。まあこうなった。

 東洋のものは、この(そと)しかやらない。自然科学的自然 ― こんなん『物質的自然』と云った方がいいなあ。物質的自然の中なんか問題にしない。外しかやらん。まあ、こう違ってる。

 ところで、西洋の学問と云うものについて、一番云いたいのは、あなた方は学問学問と云いますが、西洋の学問ですよ。東洋で学問と云えば、言葉は同じですが内容は全く違う。あとで例を申します。西洋で云う学問というものの中に、

 『其の存在が実証されたもの』

 これが本当にある学問ですが、そんなものが1つでもあると思いますか。

 『1つもない』

 この実証ですが、これはやはりこの中(物質的自然の中)でやらなきゃ。『理性』までしか使えない。これ以外のものを使ったら実証だと思いません。だから使えない。ところでこの中で、これ、理性だと云えるのは第六によってるでしょう。哲学者が考える時はあれを使ってます。で、五感て、六感ですね、第六感は大脳前頭葉と云う目。この範囲内、これだけで云わなきゃ実証したとは云わない。西洋人にとってはこれしかないんだから。

(※解説5)

 私は一般的な学問には全くの素人なので、ここで解説する資格はないのだが、ご参考のために西洋の学問に対する岡の別の発言を拾ってみることとする。市民大学仙台校1970年「一滴の涙」より。

 『西洋の学問思想はすべて自然が実在すると云う仮定のもとに立っていますね。ところが自然は実在しやしない。映像でしょう。

 そしてありもしない時間空間と云う箱に詰められているんですね。そうすると西洋の学問思想というものは、オモチャ箱をひっくり返したようなものですね。だから、てんやわんやと面白いんです。やっとこやっとこくりだしたオモチャのマーチがラッタッタと面白いですよ。素粒子の消え方にしたって、色んな仮説の立て方見ても、それから今だに唯物主義捨て切らずにそれしか考えてない。数学の使える筈のないところを方程式で表わそうとして、それから時間も空間もないところなんて想像してもみやしない。まるでそれを知らずに、ああだこうだと色々やっている』。

 岡はこういう風にいっているのだが、この短い言葉の中に我々にとっていろいろなヒントが散りばめられているのではないだろうか。

 さて、話は変わるが、「あとで例を申します」という、岡にとっての日本や東洋の学問とは一体どういうものだろうか。私なりに考えてみたのだが、「心の世界」を体系化したものだろうから、先ず短いもので老子「自然学」、山崎弁栄「無辺光」、道元禅師「正法眼蔵」ぐらいが頭に浮かぶ。

 岡が高く評価する古事記、万葉集、芭蕉、日本歴史などは文学や歴史であるから、この場合の「学問」には入らないのである。

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