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2016.09.18up

岡潔講演録(20)


「1971年度京都産業大学講義録第6回」

【7】 科学の消滅

 だから科学と云う言葉は消滅せざるを得ない。

 科学とは何かと定義しないでやってますが、この中(物質的自然の中)と限ればそこをきちきち調べて行くというのを科学と云う、それじゃ何もわかって来ないということが始めからわかってる。他の学問についていちいち云いませんが、数学がこんなで、自然科学あるいは物理学がこんなだったら。

 それから、今後は学問という言葉の内容を本質的に変えるほかはない。きちきち誰にでもやれるというやり方でやれるのは、またやってもらわなきゃ困るのは、お掃除だけです。ごみをはき捨てるのはそれでよい。だがそれ以外なにも出来ない。西洋人が自然科学でやった、そんなものありゃしませんけど、あると思ったか、つくろうと思ったかしてやった2つの非常に大きな功績は、1つは五感でわからないものがあると云うことを、五感と理性との範囲内に ― つまり理性でわかるように五感でわからないものを発見した。

 これは初めての発見です、人類あって以来。だから今後は ― 五感と理性しか使えない人を凡夫と云う、人は大抵みな凡夫なんです。凡夫にも五感でわからないものはあると云うことを教えることが出来る。根気はいるでしょう、教える方にも習う方にも。しかし手間と時間さえ惜しまなきゃ、これは出来るように、人の話を聞いても信じやすい。非常な功績。これをやってくれなきゃ、馬鹿な者はいくら教えたって馬鹿なことをすることを止めない。

(※解説7)

 ここは非常にスケールの大きいところである。20世紀までに花開いた「科学」は、大概は人や自然を破壊することに多く使われているように私には見えるのだが、その「科学」を1人の大天才によって総括するところである。

 キチキチと精密に調べることが「科学」の特性ということになっているが、「それだけでは何にもわかってこない」というのが岡の主張である。キチキチと誰にでもやってもらわなきゃならないのは「お掃除」だけだと岡はいう。

 考えてみれば岡の方向性と「今日の科学」の方向性とは全く逆である。岡は人類の「心の世界」という基礎を解明することによって「科学」の位置づけを明確にしていくのに対して、「今日の科学」は自らの立脚点を不問にしたまま、その上に精密に調べた結果をやみくもに積み上げていくだけではないだろうか。

 だから「科学」がどこに向かっているのか、「科学」自体にはわからないし修正もできないのである。そして岡は「馬鹿なものはいくら教えたって馬鹿なことをすることを止めない」というのであるが、その「馬鹿な者」とは一体誰のことか。それは唯物主義を捨てきれない西洋の科学者と、その真似しかしない日本のアカデミズム業界の人達のことではないだろうか。

 そして最後に岡はつけ加えるのである、「根気はいるでしょう、教える方にも習う方にも」と。「今日の科学」を人類が卒業するにはまだまだ時間がかかると、岡は既に覚悟している口振りである。

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