「1971年度京都産業大学講義録第11回」
【2】 このからだ、この心
人はいろんなことを教えられて、いろんなことを知ってると思ってるものです。誰でもみなそうなんです。ところが実際は、そういう付け焼刃を落としてみますと、さっぱり何も知らないんですね。さっぱり何も知らないと云っても、いろんなことについて、いろんなことを聞いたことは覚えている。で、全くどう云ってよいのか。なんて云うかなあ、ともかく知ってると思ってることが、実際はちっとも知らないんですね。
まあ、このからだというものがありますね、わたしと云うものがあって、そしてこのからだと云うものがある。わたしはこのからだを使う。このからだが無かったら全く困ってしまう。また前頭葉に宿ると云われている心理学的な心と云うものがある。大脳生理学は感情、意欲、理性を司っていると、そう云っていますが、そういう心というものがある。普通わかると云えば、この心がわかるんですね。この心のわかり方は必ず意識を通す。そんなふうな心というものがある。
しかし、わたしが何かする時、例えば原稿を書く時は、必ず、この心を使う。そんなふうだからと云って、このからだ、この心がわたしだとは云えない。原稿を書く時はペンが無ければ書けない、ペンを使う。だからペンがわたしだということになるかと云うと、決してならない。
このからだ、この心が自分ではない、自分がこのからだ、この心を使っているのだ。そういうことを東洋の大先達は大抵みな口を揃えて云っている。直接そう云っていないのはむしろ例外であって、孔子ぐらいでしょう。孔子もしかし間接にはこのからだ、この心が人だとは思っていない。そんなふうですね。
ところが、東洋はみなそうだけど、西洋はこのからだ、この心が人である。自分のからだ、自分の心が自分である。そうであると云うことについて、本当にそうかなと思って考えた人なんか1人もない。そう決めてしまっている。
ここに東洋と西洋の大きな違いがあるんですね。一体どっちが本当だろうかと云うので、自分でいろいろ考えてみるに、どうも東洋の云うところが本当で、西洋人はいかにも考えが浅薄である、そんなふうに思えます。
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