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2016.12.15up

岡潔講演録(21)


「1971年度京都産業大学講義録第11回」

【2】 このからだ、この心

 人はいろんなことを教えられて、いろんなことを知ってると思ってるものです。誰でもみなそうなんです。ところが実際は、そういう付け焼刃を落としてみますと、さっぱり何も知らないんですね。さっぱり何も知らないと云っても、いろんなことについて、いろんなことを聞いたことは覚えている。で、全くどう云ってよいのか。なんて云うかなあ、ともかく知ってると思ってることが、実際はちっとも知らないんですね。

 まあ、このからだというものがありますね、わたしと云うものがあって、そしてこのからだと云うものがある。わたしはこのからだを使う。このからだが無かったら全く困ってしまう。また前頭葉に宿ると云われている心理学的な心と云うものがある。大脳生理学は感情、意欲、理性を司っていると、そう云っていますが、そういう心というものがある。普通わかると云えば、この心がわかるんですね。この心のわかり方は必ず意識を通す。そんなふうな心というものがある。

 しかし、わたしが何かする時、例えば原稿を書く時は、必ず、この心を使う。そんなふうだからと云って、このからだ、この心がわたしだとは云えない。原稿を書く時はペンが無ければ書けない、ペンを使う。だからペンがわたしだということになるかと云うと、決してならない。

 このからだ、この心が自分ではない、自分がこのからだ、この心を使っているのだ。そういうことを東洋の大先達は大抵みな口を揃えて云っている。直接そう云っていないのはむしろ例外であって、孔子ぐらいでしょう。孔子もしかし間接にはこのからだ、この心が人だとは思っていない。そんなふうですね。

 ところが、東洋はみなそうだけど、西洋はこのからだ、この心が人である。自分のからだ、自分の心が自分である。そうであると云うことについて、本当にそうかなと思って考えた人なんか1人もない。そう決めてしまっている。

 ここに東洋と西洋の大きな違いがあるんですね。一体どっちが本当だろうかと云うので、自分でいろいろ考えてみるに、どうも東洋の云うところが本当で、西洋人はいかにも考えが浅薄である、そんなふうに思えます。

(※解説2)

 岡が1969年に発見した世界観「2つの心」を、この71年も継続して提唱しているのだが、ここでいう「このからだ、この心」とは「第1の心」という意味である。

 そして西洋は「このからだ、この心が自分だと決めてしまっている。本当にそうかなと思って考えた人なんか1人もない」と岡はいうのだが、西洋歴代の哲学者や心理学者はいうに及ばず、そういう人が1人もいないというのは、我々の想像をはるかに超えた何と思いきった断定ではないだろうか。

 しかし、あの複雑で多岐にわたる西洋文明をこのように一刀両断にしてくれると、我々の頭の中も西洋文明の呪縛から解き放たれて、物事が非常にシンプルに考えやすくなるのではないだろうか。

 さて、東洋では釈尊や老子はいうに及ばず、孔子だけが多少例外だと岡はいうのだが、孔子は中国の伝統として現実の政治に関心が高く、実践的な道徳というものを説いたがために、あまり「心」というものを正面に据えて見ていないようである。しかし、論語には「2つの心」のパラドックスが随所に説かれている。

 巧言令色、(すく)なし仁
 君子はこれを己に求め、小人はこれを人に求む
 君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず
 朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり

 これなどは「2つの心」の世界観から生まれた典型的な言葉である。

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