「1971年度京都産業大学講義録第11回」
【3】 時間空間と視覚
また、自然についても、ちっともわかっていない。西洋は自然科学というのを調べて大分よくわかって来たと思ってる。西洋の学問、思想は今では大抵みなこの自然科学の上に立ってると思う。自然科学はどう考えているかと云うと、始めに時間、空間というものがあると考えているに違いない。口に出しては云わんでしょうが、少しは云ってるかもしれないが、ともかく、時間、空間というものがあると思ってるに違いない。
ところが、この時間、空間と云うのは、はなはだわからないもので、出来得れば時間、空間が存在するということを数学的に証明したいのだけど、今そういうことが出来ると思ってる本当の数学者は最早1人もいない。と云うのは、数学がそこまで進歩したという意味ですね。つまり自分の力の限界がだんだんわかって来た。
で、時間、空間と云うのは言葉だけがあって ― 言葉よりもう少しありますが ― 空間は見えるからあると思う、時間は空間に直して云えるからあると思う。空間に直して云えるからあると思うと云うより、もう少し遡るでしょう。何か時間と云うようなものがあると思う。あると思うから空間に直して云い表わそうとするんでしょう。無かったらそんなことしない。だけど実際あると思ってるのは、例えば太陽とか、例えば時計とかがあるからあると思ってる。それで現在のところ、時間、空間というものは、視覚に支えられてあるんですね。
じゃ、その視覚とはどういうものかと云うと、これはさっぱりわからない。視覚はともかく人類共通の1つの癖であるとでも云わなきゃ。視覚が癖って云うのはおかしいですが、視覚に基づいて思想等があります。人類は視覚を基にして思想するものです。だから視覚それ自身は癖だと云うようなもの。人類共通の癖。おかしな癖があるものだなあ、どういうつもりでこういう癖をみんなに持つようにしたのだろう?
もうその時、言葉が無い。そんな時「造化」って云うんです。造化はどういうつもりでこういう共通の癖を人に持たせたのだろう?大体この癖はどこから来るんだろう?そうすると大分わかります。これは大脳前頭葉から来る。だから大脳前頭葉を取り外せば時間も空間も無くなる。
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