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2016.12.15up

岡潔講演録(21)


「1971年度京都産業大学講義録第11回」

【4】 不安定な素粒子

 西洋人は物質の世界は物質の世界だけで切りはなして考えられる、こう思ってた。思うのが当り前です。本当にあるのは物質だけだと思ってたんだから。だから角度を変えて云えば、物質の世界というものがあって、それだけを切りはなして考えられる、こう思ってた。そういう基盤が出来てなければ、自然科学というものは有り得ない。

 で、あると思ってた。で、調べていった。そうすると素粒子というものがみつかった。素粒子の中には不安定な素粒子というものがある。この不安定な素粒子は生まれて来て、またすぐ消えて行ってしまってる。そうするとこの不安定な素粒子の生まれる前の状態及び消えて行ってしまってから後の状態は、これは五感ではわからない状態です。だから五感でわからない状態というものがある。つまり、あるんだけれども五感でわからないと云うことはある。こう認めるほかはない。

 それで、五感でわからないものは無いという仮定は、暗々裡に置いた仮定ですが、これは完全に間違っていたのだから、それだけから云っても調べ直すほかはない。始めから自然とは何だろうと調べ直すほかはない。それだけではなく、不安定な素粒子というものがあって、五感でわからない状態から生まれて来て、また五感でわからない状態へ帰って行ってるとすれば、物質の世界というものだけが切りはなされて独立して存在するということは云えない。だから自然科学というものは有り得ない。

 今こういうところへ来てるんですね。こうであるということはみな知ってるはず。ところがその意味はみなさっぱり知らない。

 大体、不安定な素粒子というものがあって、生まれて来てまた消えて行ってるというのなら、自然の一部は生まれて来てまた消えて行ってる。ところが自然と云えば、人は自然というものがあって、確固不動にある、絶えず存在する、そう思ってた。非常に確かなよりどころとして自然というものがあると思ってた。ところがそうじゃないでしょう。実際、山崎弁栄上人は「如来は常に大光明を放って『自然』、『心霊』の二界を顕現しているのである」、そう云ってる。心霊界と云えばお浄土です。それはいいとして、自然界は顕現しているのである。光明を放って顕現しているのであると云えば映像ですね。

 どうも不安定な素粒子のあるということから考えて、科学的にも弁栄上人の云ってられるところが本当らしい。自然という確固不動のものがあると思ってるのは、人がそう思うだけらしい。五感だけで見ると、自然という確固不動なものがある、大地というものがあると思うんですね。だけど科学的に調べてみると、不安定な素粒子というようなものが出て来る。仏教の云うところを聞いてみると、自然は映像だと云ってる。どうもそれが本当らしい。

(※解説4)

 「西洋人は物質の世界は物質の世界だけで切りはなして考えられる、こう思っていた」と岡はいっているが、それは何から切りはなして考えられるかというと、「心の世界」から切りはなして考えられるということである。

 こういう世界観を「唯物主義」というのだが、本当は「心の世界があるから、それに依存して物質の世界があるのだ」というのが真実に近いのである。

 それを彷彿として頂くためには、「映画館」を思い出せばよいのである。今でいえば「バーチャル」である。映画館ではスクリーンに映像が映るのだが、そのスクリーンが岡のいう「時間空間の箱」と思えばよい。その中に映っている映像の1つ1つがいわゆる「物質」であり、1つ1つの肉体が我々(第1の心)である。

 しかし、そのスクリーンから目を離して見れば、その手前には「映写機」というものがあって、その「光源」から「フィルム」を通して映像がスクリーンに映写されているのがわかる筈である。西洋人をはじめ現代の我々は、この事実に全く気がつかないのである。

 目には見えない「心」を見ることを続けてきた仏教は、このことに遥か昔から気づいていて、唯識論ではこの「フィルム」をアラヤ識(第8識)といい、この「光源」を如来(第9識)といっているのである。

 「物質の世界」は本当は、目に見える「物質」だけでは説明しきれないのであって、目には見えない「フィルム」と「光源」があるという仮説を採用しなければ、決して説明できないのである。

 因に、岡の説く「素粒子論」は湯川秀樹が活躍していた今から50年近くも前のものではあるが、その安定な素粒子と不安定な素粒子の基本的な構図は、今でもほとんど変わってはいないとテレビで専門家がいうのを聞いたことがある。

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