「1971年度京都産業大学講義録第11回」
【6】 からだの主宰性
もう少し敷衍して考えてみましょう。このからだですが、このからだというのは家とは違います。家は一度建てたら同じ物質をそのまま使ってるのですが、このからだは絶えず変わってる。食物を食べ、それを排泄して絶えず内容を変えてる。絶えず変わってる。そうして全身におびただしい細胞がある。こういう細胞が絶えず変わりつつ、絶えず1つの肉体を形づくるためには、この細胞はめいめい勝手な働きをしちゃ勿論悪い。だからこれを『主宰』するものがあるに違いない。統一して統一的に命令を下すのが主宰するですね。主宰するものがあるに違いない。
その主宰するのは、やっぱりこれは、こうせよって云うのは意志力だけど、それがわかるのは知力でしょうが、主宰性と云うような知力は、どこから来るかと云うと、この心理学的心にそんな知力が無いことは明らかですね。この心が知って、そしてやろうと思う通りにやってるのは、食べ物を取り入れるところまでと、それから大小便として排泄する寸前と、その両端だけはわかるし、こうしようと思う通りになりますが、あとは何がどうなってるのかわかりませんね。だからこの心の知力が主宰してるんじゃない。端的に云って、この心が主宰してるんじゃありませんね。
そうすると人の肉体を主宰しているものは何だろう。自分のからだ、他のからだ、人というものの、肉体というもの、見てみますに、ほぼ同じようですね。だから主宰性は似たりよったりの主宰性でなきゃなりませんね。ところが肉体を主宰とするというのは非常に複雑な働きですね。どんな精密機械よりも精密な知的操作でしょう。この主宰性が、もし甲の人の主宰性と乙の人の主宰性とが、同じ主宰性でないならば、別々の主宰性をほぼ同じにするということは、ちょっと出来んことですね。こんな複雑なもの、一体どうして一方の人から他方の人へ通じますか。出来やしませんね。これはわかるでしょう。
だからそれから推して考えるに、宇宙の主宰性は唯1つでなければならない、そう思うでしょう。そうでなければ、我々が見るようなこんな調和のとれた自然などというものは有り得るわけがない。1個の花を主宰するにしても、その操作は非常に複雑です。とても話し合いで調和をとるなどという、そういう種類の方法は成り立たないに決ってる。これはわかりますか。
こういうふうにやっていくのを哲学と云うんでしょう。自分でよく調べてごらんなさい。
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