「1971年度京都産業大学講義録第11回」
【7】 不思議な赤ん坊
人が不生であるということを見たかったら、赤ん坊を見るのが一番よろしい。幼児。生まれて40日もすれば目が見えますが、わたしの一番小さな孫は42日目に目が見えたんですが、おばあちゃんに抱かれてると、顔をじーっと見てにんまり笑った。そうするとおばあちゃんは「見えたか、見えたか」って云ってかわいがってる。そして「この子もう目が見えますよ」ってみんなに云って回った。それでわたしなんかも行って見たんですが。目が初めて見える。じーっと見てて見えると、懐かしそうににんまり笑った。もう心はちゃんと出来てるでしょう、人の心はちゃんと出来てるでしょう。それ以前は知りませんが、ちゃんと出来てる。
今2年2か月くらいですが、もう大抵の人の心は備わってる。こんなもの短期間に出来るはずのものではない。これは始めからあるのがここへ来たんです。人は不生だからと云うことは、赤ん坊を見れば見るほど、そうだと断定せざるを得ない。
みな赤ん坊を見ることを喜びませんが、赤ん坊くらい不思議なものはない。何が不思議かと云うと、人が不生である、これをいちいち教えるからです。大体じーっと見て、見えたらにんまり笑うということが既に出来ない。こんな心をどうしてつくりますか、育てますか。この心を失いさえしなければ、人は人の道を踏み外すことなんかない。戦争なんかも起こりゃしない。それがちゃんと出来てる。つい忘れるんです、忘れるんだけれども無いんじゃない。だから戦争はやはりいけないと云うような声が起こるんです。
じーっと見て、見えたらいかにも懐かしそうに、にんまり笑う。単にそれだけでも、ちょっとそんなものつくられやせんでしょう。それ以後いろいろ見てみると、人の心というものは不生である、始めからあるのだ、と云うことは疑えない。
赤ん坊を見て驚嘆しないようでは、その人は哲学が出来るなどと、哲学者だなどとはとても云えない。西洋の哲学者ははたして赤ん坊を見て驚嘆するだろうか。当り前だと思ってる。そこを当り前だとしたら、やることなんか無いはずです。
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