(※解説8)
岡は1968年までは当時流行の学説を鵜呑みにして、前頭葉は「感情・意欲・創造」が働くのだから、前頭葉が本来の「人の座」としていたのだが、1968年以後はその考えをひるがえし、前頭葉は第1の心の自己中心的な「自我の座」であり、頭頂葉が第2の心の「無私の心の座」という構想に変わってくるのである。
このピッツバーク市の事件はテレビで放送されたのだが、地元チームのパイレイツが野球の世界選手権に勝利したのが引金となり、全市が興奮と暴力と性本能の坩堝と化したことをいうのであるが、岡はこれを「前頭葉的現象」だといったのである。
後に詳しく説明する事になると思うが、第1の心の「自我」の構造は唯識論でいうと五感(前5識)と、意識(第6識)と自己保存本能のマナ識(第7識)の3層に別かれているのであるが、ここでいう「刺激」は五感(前5識)の過熱からくるのであるし、「興奮」は意識(第6識)の過熱からくるのであるし、「性本能」はマナ識(第7識)の衝動からくるのである。
このピッツバーク市の事件は、その第1の心の「自我の発作」の典型的な例ではあるが、そればかりか、我々が日常的に刹那的な刺激や興奮を追いかけて、ビタミンCの発見者であるセント・ジェルジが警鐘を鳴らしたと岡のいう「狂った猿」となってしまうのも、この「前頭葉的現象」なのである。
ただ、その辺のところを注意しなければならないのは、今日の大脳生理学はアメリカの影響を受けた「側頭葉理論」をやっと卒業し、「前頭葉」を再び肯定的に見直しはじめているように見えるのだが、45年前の岡は既に機械の座である「側頭葉」ばかりではなく、「前頭葉の限界」もただ1人指摘していたのである。つまり現代文明の元凶は「前頭葉」の「自我」にあると。
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