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2016.11.07up

岡潔講演録(22)


「1971年度京都産業大学講義録第16回」

【9】 頭頂葉の個性

 おれがおれがにいろんな種類があって、その各々を指して個性と云ってるらしい。ところが個性というものを自然に求めてみますと、どういうものが個性かと云いますと、松の含水炭素はどこへどう使われでも滴々みな松になる。竹の含水炭素はどこへどう使われでも滴々みな竹になるでしょう。これが個性です。

 だから個性を一段低く見てしまってる。つまり個性は頭頂葉にあるのである。前頭葉にあるのではない。おれがおれがの如きは全部取ってしまうのがいい。前頭葉が使いたいと思えば、せいぜいなにくそに止どめておけばいい。おれがおれがとまで行く必要がどこにある。これは全部やめてしまうのがいい。

 だからおれがおれがというのは穢れです。普通個性と云ってるものは、その穢れの色どりの種類です。頭頂葉にある個性と云うのは、松が松であり竹が竹であるのと同じ。それはどういうものかということ。

 しかし、あの人は松だからどこへ出しても松だ、あの人は竹だからどこへ出しても竹だ、そういう言葉で云い表わせそうなものを人は感じるでしょう。その時おれがおれがという感じは全然受けんが、そういうものがあるでしょう。

 あの人は竹を割ったような気性である、どんな時もそうである、というふうなこと云ってるでしょう。そういうものに対して、おれがおれがという感じは全然受けない。これが個性です。おれがおれがに種類があるなどと云うのは、こんなのは漫画家は要るかもしれないが普通の人は無視していい。おれがおれがは全部抑えてしもうべきものです。そんなもの、なにくそ一つで充分間に合う。

(※解説9)

 岡は既に1969年早々には「第1の心」は前頭葉に宿り、「第2の心」は頭頂葉に宿ることを特定していたのだが、ここではそこから生まれてくる個性について語っている。

 この「おれがおれが」という個性が「第1の心」の前頭葉の個性であり、「おれがおれが」を入れなくても自ら出てくる個性が「第2の心」の頭頂葉の本当の個性だというのである。

 例えば当時の芸術家であるが、「前衛芸術」とかいって人が使わない奇抜な表現や嫌悪感をもよおす色彩を使って、それがあたかも芸術だと思い込んでいる。まるで自分のノイローゼを絵に表現しているようなものだと岡はいう。

 そして、一般の漫画は「おれがおれが」の「第1の心」の個性の表現だと岡はいうのであるが、1つだけ例外がある。それは手塚治虫であると、どこかに書いてあったと思う。

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