「1971年度京都産業大学講義録第16回」
【9】 頭頂葉の個性
おれがおれがにいろんな種類があって、その各々を指して個性と云ってるらしい。ところが個性というものを自然に求めてみますと、どういうものが個性かと云いますと、松の含水炭素はどこへどう使われでも滴々みな松になる。竹の含水炭素はどこへどう使われでも滴々みな竹になるでしょう。これが個性です。
だから個性を一段低く見てしまってる。つまり個性は頭頂葉にあるのである。前頭葉にあるのではない。おれがおれがの如きは全部取ってしまうのがいい。前頭葉が使いたいと思えば、せいぜいなにくそに止どめておけばいい。おれがおれがとまで行く必要がどこにある。これは全部やめてしまうのがいい。
だからおれがおれがというのは穢れです。普通個性と云ってるものは、その穢れの色どりの種類です。頭頂葉にある個性と云うのは、松が松であり竹が竹であるのと同じ。それはどういうものかということ。
しかし、あの人は松だからどこへ出しても松だ、あの人は竹だからどこへ出しても竹だ、そういう言葉で云い表わせそうなものを人は感じるでしょう。その時おれがおれがという感じは全然受けんが、そういうものがあるでしょう。
あの人は竹を割ったような気性である、どんな時もそうである、というふうなこと云ってるでしょう。そういうものに対して、おれがおれがという感じは全然受けない。これが個性です。おれがおれがに種類があるなどと云うのは、こんなのは漫画家は要るかもしれないが普通の人は無視していい。おれがおれがは全部抑えてしもうべきものです。そんなもの、なにくそ一つで充分間に合う。
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