(※解説12)
この刺激と自己主張(自己中心)の弊害は今まで度々取りあげてきたことである。これが「第1の心」の「自我」の特徴であって、五感(前5識)と意識(第6識)と自己保存本能が働いているマナ識(第7識)と3層に別かれるのであるが、岡はそれらを厳しく戒める。
大体、現代のカルチャーは真に日本の伝統を踏襲するものは別として、たとえそれが古いものであれ新しいものであれ、大概が「五感」と人の「意識」に訴えることと、それから自己保存本能からくる「自己主張」の相対的な「刺激」の産物ではないだろうか。
私は高知に住んでいるから1つ例をあげるとすると、「よさこい鳴子踊り」である。わかりやすくするため、非常に伝統を重んじる富山の「おわら風の盆」と比較してみたい。
先ず1つ目が「お囃子」である。「風の盆」は三味線と中国から渡ってきた胡弓の絶妙な哀調の「調べ」に、私などは心を揺さぶられるのであるが、土佐の「鳴子踊り」は踊りが産まれて60年を過ぎた今では地方車に積んだスピーカーの出力全開の、既に音を通り越して「振動」である。これが五感からくる「刺激」であって、これではメロディーも調べもあったものではない。ただ喧しいだけである。
2つ目は「踊り方」であるが、「風の盆」は江戸時代から続く踊りの振り付けを厳格に守っていて、その醸しだす「情緒」(第10識の要素)をいかに再現するかに主眼がおかれている。
それに対して「鳴子踊り」は奇抜で派手な振り付けを次から次へと繰りだして、あたかもそれが斬新で進歩的であるかのようである。しかし、これも私にすれば醜悪であることを否めない。これは五感からくる「刺激」と第7識からくる「自己主張」の2つの要素である。
3つ目は踊り子の「顔の表情」である。「風の盆」は主に菅笠()で顔を隠していて、夜の町流しの時の笠をかぶらない場合でも喜怒哀楽を表情に出さず、いわゆる「澄まして踊る」のである。それに対して「鳴子踊り」は一応菅笠はかぶるものの顔はあらわに出し、満面の笑みで踊るものとされている。
これは踊りの核心部分のところであって、「鳴子踊り」では観客を「アッ!」といわせようと観客の「意識」に訴え意識的に踊るのである。こういうのを今でいえば「パフォーマンス」というのだろうが、それに対して「風の盆」では無意識的、つまり「無心」になってその「情緒」に浸り、その「情緒」をいかに醸しだすかに意を注いでいるように見えるのである。
岡は日本の踊りの真髄は、自分(自我)が踊るのではない。いってみれば「踊りが踊る」のであるという実に上手い表現をしているが、これが無私の「第2の心」というもので、まさに富山の「風の盆」はその伝統を忠実に物語っているのである。
最後に少し言い添えるとすれば、「鳴子踊り」では優秀なチームには「賞」が、上手い踊り子には「メダル」が首にかけられるのであるが、そんな子供染みたことをなぜするのだろう。踊り子は益々観客の五感を刺激し人の意識に訴えて、自己主張丸出しの踊りになるからである。酷いのは「カーニバル」さながらの膚をあらわにする女性まで出現するのだが、これは「情緒」とは程遠い「性本能」である。
日本の踊りは皆が「こころ」を1つにして、「情緒」という無上の雰囲気を醸しだすだけで良いのではないだろうか。そこにはしみじみとした「懐かしさと喜びの世界」があるからである。
猶、「風の盆」には「男踊り、女踊り」があることも、ここでご紹介しておきたい。これは差別に当るのだろうか。男女性のあることを嫌うのは、あくまでも自己を主張する「自我」の特徴である。
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