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2016.11.07up

岡潔講演録(22)


「1971年度京都産業大学講義録第16回」

【12】 刺激と自己中心

 で、大脳前頭葉的であるということは、興奮的であるということが一つある。が、それ以外に、自己中心的であるということもある、前の方はそれじゃ困るんですね。刺激から刺激と、こういう方向へ行ってしもうから困る。しかしそこに止どまるんだが、自己中心的というものがはいると非常に穢れ感じるでしょう。穢れと感じるでしょう。

 感じればいいんです。日本人は自己中心ということを非常な穢れと感じるんです。それを感じないというふうになって来てる人がいるとすると、それは大問題だ。道徳的情操の麻痺ですね。道徳的情操は一口に云って、自己中心は穢いものなり。

 日本人は特にこの自己中心ということに対して、穢れに対して、潔癖なんです。終戦後ひどくそこが乱れてます。今学校は、自主的に、人は自己中心的に知情意し行為すべきものだ、それが正しいのだと教えてるでしょう。とんでもないこと。

 人はまたしても自己中心的に知情意し、行為するようにつくられた生物である、だから(ひと)の自己中心的であることに対しては寛大でなければならない、しかし自分は決してそうであってはならない、そう教えるべきです。

 ともかく、今の世代を一番毒しているものは『自我』です。これを抑えなければ、真の幸福というものは到底有りません。幼児(おさなご)は懐かしさと喜びの世界にいる。心の元素は、簡単に二元素は、懐かしさと喜びです。幼児は懐かしさと喜びの世界にいる。みるから幸福そうでしょう。幸福とはああいうものなん。で幼児は幸福ということを意識しない。勿論知的に幸福とはわかってるわけではない。しかしそれでも幸福なのは、情的にわかっていると云うか、そんな余計なこと云わなくてもよいが、あれが幸福というものなんです。

(※解説12)

 この刺激と自己主張(自己中心)の弊害は今まで度々取りあげてきたことであるが、これが「第1の心」の「自我」の特徴であって、五感(前5識)と意識(第6識)と自己保存本能が働いているマナ識(第7識)と3層に別かれるのであるが、岡はそれらを厳しく戒める。

 大体、現代のカルチャーは真に日本の伝統を踏襲するものは別として、たとえそれが古いものであれ新しいものであれ、大概が「五感」と人の「意識」に訴えることと、それから自己保存本能からくる「自己主張」の相対的な「刺激」の産物ではないだろうか。

 私は高知に住んでいるから1つ例をあげるとすると、「よさこい鳴子踊り」である。わかりやすくするため、非常に伝統を重んじる富山の「おわら風の盆」と比較してみたい。

 先ず1つ目が「お囃子(はやし)」である。「風の盆」は三味線と中国から渡ってきた胡弓の絶妙な哀調の「調べ」に、私などは心を揺さぶられるのであるが、土佐の「鳴子踊り」は踊りが産まれて60年を過ぎた今では地方車に積んだスピーカーの出力全開の、既に音を通り越して「振動」である。これが五感からくる「刺激」であって、これではメロディーも調べもあったものではない。ただ喧しいだけである。

 2つ目は「踊り方」であるが、「風の盆」は江戸時代から続く踊りの振り付けを厳格に守っていて、その醸しだす「情緒」(第10識の要素)をいかに再現するかに主眼がおかれている。

 それに対して「鳴子踊り」は奇抜で派手な振り付けを次から次へと繰りだして、あたかもそれが斬新で進歩的であるかのようである。しかし、これも私にすれば醜悪であることを否めない。これは五感からくる「刺激」と第7識からくる「自己主張」の2つの要素である。

 3つ目は踊り子の「顔の表情」である。「風の盆」は主に菅笠(すげかさ)で顔を隠していて、夜の町流しの時の笠をかぶらない場合でも喜怒哀楽を表情に出さず、いわゆる「澄まして踊る」のである。それに対して「鳴子踊り」は一応菅笠はかぶるものの顔はあらわに出し、満面の笑みで踊るものとされている。

 これは踊りの核心部分のところであって、「鳴子踊り」では観客を「アッ」といわせようと観客の「意識」に訴え意識的に踊るのである。こういうのを今でいえば「パフォーマンス」というのだろうが、それに対して「風の盆」では無意識的、つまり「無心」になってその「情緒」に浸り、その「情緒」をいかに醸しだすかに意を注いでいるように見えるのである。

 岡は日本の踊りの真髄は、自分(自我)が踊るのではない。いってみれば「踊りが踊る」のであるという実に上手い表現をしているが、これが無私の「第2の心」というもので、まさに富山の「風の盆」はその伝統を忠実に物語っているのである。

 最後に少し言い添えるとすれば、「鳴子踊り」では優秀なチームには「賞」が、上手い踊り子には「メダル」が首にかけられるのであるが、そんな子供染みたことをなぜするのだろう。踊り子は益々観客の五感を刺激し人の意識に訴えて、自己主張丸出しの踊りになるからである。酷いのは「カーニバル」さながらの膚をあらわにする女性まで出現するのだが、これは「情緒」とは程遠い「性本能」である。

 日本の踊りは皆が「こころ」を1つにして、「情緒」という無上の雰囲気を醸しだすだけで良いのではないだろうか。そこにはしみじみとした「懐かしさと喜びの世界」があるからである。

 猶、「風の盆」には「男踊り、女踊り」があることも、ここでご紹介しておきたい。これは差別に当るのだろうか。男女性のあることを嫌うのは、あくまでも自己を主張する「自我」の特徴である。

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