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2017.02.18up

岡潔講演録(24)


「情の発見」

【6】 日本民族の情

 こんなふうだから、日本民族の情は合して1つになっている。これが日本民族の情ですね。集団生活を説いているのは中国と日本だけ。日本の集団生活は日本民族という非常に完全なもの。で、日本民族という1つの情、それが自分であると思うことが出来る。私満州事変以後40年そう思い続けた。そうすると完全にそう思うようになった。だから自分という情は日本民族という情から生まれてきておる。またそこへ帰っていきますね。情だからこんなことが出来る。知や意が混じっていたらこんなことは出来ません。

 で、真情は真我には違いありません。一面真我ですが、他面人であるということ、また免れ難いこと。だから真情を自分だと思うと、自分の情緒はみなそういう人の中に閉じ込められてある。ところが、日本民族という情を自分だと思うと情緒が解放される。すっかり解放される。そこが違うんです。その解放された情緒、つまり情緒が情念的に自由になる。そういう境地が「(にょ)の里」。

 この前、如の里を云い間違えて、情緒と云うべきを情と云いました。情じゃない、如の里は離れている。これは、その命は、これは情緒です。この前情と云ったのは云い間違いです。

(※解説6)

 「如の里」についての岡の説明は、不鮮明な録音のせいか把握しづらいところもあるが、「日本の集団生活は日本民族という非常に完全なもの」という岡の言葉は、私には実感としてよくわかる。

 私の人生を通してその実例をさぐってみると、先ず私の中学高校の恩師、内田八朗先生である。先生は当時西洋ばかり向いていた私の目を、日本に向き直させてくれた恩人である。

 私は先生に身の程も知らず弟子入りを申し込んだ唯一の教え子ではないかと思うが、私が卒業して大分経って、ある日胸騒ぎがして先生宅に電話を入れると、前日入院したとのことであった。

 急遽病院を訪ねてみるとガンで入院したとのこと。暫くぶりで懐かしく会話をかわしたのだが、先生は半年後に亡くなられた。しかし、どういう理由かはわからないが、私と会った後は教え子の誰とも面会しなかったとのことである。実は私の父も若かりし頃の先生に小学校で習っている。

 次に私の学生時代の親友であり、高校3年の時岡のことなど知らなかった私をむりやり岡潔高知講演に引っ張って行ってくれた、今は亡き浜田真孝君である。彼は私に一言もいわず、岡の講義を聞くために京都産業大学へ行ったのである。私がその理由を知ったのは、彼が亡くなる直前であった。ただ彼の唯一の欠点は、私の小学校からの幼なじみを好きになったことである。

 次に私が東京での大学時代、「立派な人があれば是非会いに行きたまえ」といって、岡に面会する唯一の動機を与えてくれた、高知出身の大学教授、村井襄二先生。

 また私が38才で職を辞して岡潔思想研究会を立ち上げた矢先に出会い、「よし、この道を行け」といってもらったと今も思っている大野長一先生。

 大野先生亡き後10年程、研究会を支援してくれた土佐黒潮鉄道社長の甲藤義信先生。

 私は人生の節目節目に、こういった日本民族の集団生活を体験させてもらったのである。

 「私共のこのささやかな営みが、やがて回天の大事業に繋がって、新生日本に1つの意義をもたらす事を信じたい気持ちでした」  内田八朗

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