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2017.03.13up

岡潔講演録(25)


「情を語る」

【3】 真情の発見

 情、情と云っても不純なものを切り捨てて純化しなければいけませんが、それについて、人には意識が2つある。表層の意識と深層の意識。表層の意識というのは大脳前頭葉に働く意識。普通、人の云ってる意識。心理学もそれを意識と云ってる。

 深層の意識と云いますと、深層の意識が働かなくなって、そうなってもまた回復することもありますが、それがそのまま永続するならば、その深層の意識が働かなくなった時をもって医学は死んだと認めている。医学はどっちかというと間違ったことばかり云ってると云ってよろしい。無茶な仮定の上に立っていますが、しかしこれなんかは正しく云ってる。それが深層の意識ですね。

 情のうちで表層の意識の部分を切り捨てる。浅くて、それから得てして濁ってるから。自己中心的に濁ってるんです。それで切り捨てる。それから、日本人は胸中・心中・腹中と云えばわかりますが、胸中いかばかりだったろう、心中こんなふうだったろう、腹中こんなふうだったろう。わかります。胸中と云えば情、心中と云えば知、腹中と云えば意ですね。

 情の部分、部分と云いましても情はそれ自体分かつべからざる1つの全体ですが、その部分も、部分という言葉は使いますが、やはり分かつべからざる1つの全体。そういうものが無量にあります。これが情の内容ですが、これを情緒と云うことにします。その諸情緒のうちから胸中の情緒だけを残して、心中の情緒、腹中の情緒を切り捨てる、取り去る。つまり、知的情緒、意志的情緒を取り去る。

 この2つの操作をすれば、情は純粋になります。これを真情と云うことにします。日本人は真情を自分だと思っているんですね。

(※解説3)

 道元禅師の言葉に「捨は無限なることを学すべきなり」というのがあるが、まさしくここは岡が心の浅い部分からどんどんと心を削っていくところである。

 まず表層意識の知情意(感情、意欲、理性)を自分ではないと切り捨て、次に深層意識の知的情緒(心中の情緒)、意的情緒(腹中の情緒)を切り捨てる。そこに残ったものが純粋な情、「真情」である。

 日本人は万葉集では「直き赤き心」といって、古来この真情を「こころ」と呼んできたのだが、岡は情の特徴の「かゆい所に手が届く」ように「真情とは何か」を理路整然と説いてくれているのである。いい加減にもうそろそろ我々も、この岡の熱意と努力に応えるべき時代に来ているのではないだろうか。

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