「情を語る」
【10】 情を浄める
まあ、そういうこと。詳しく述べるのはまたにしますが、で、そんなふうだから、仏教の修行も情を主として修行すべきものです。
仏教倫理「諸悪莫作、衆善奉行()、自浄其意()」と云いますが、諸悪莫作と云うのは悪いことはするな、衆善奉行は良いことはせよって云ったら、知や意の領域ですね。
自浄其意は情を浄めよって云うことです。諸悪莫作、衆善奉行がすんでから自浄其意なんです。で、実際は情が自分です、真情が自分です。真情がきれいなら、もうそれでよいんです。で、自浄其意が大事なんです。始めから自浄其意やりゃよい。
知や意は自分じゃないから、あの中に無明がはいってもわからん。それで容易に取れん。それでアラヤ識がなかなか渡れない。非常に長くかかって渡るでしょう。
自浄其意ったら情を浄め真情を浄めることです。これは真情は自分だから、それが無明でなくなれば直ちにわかる。だから直ちに浄めることが出来る。自浄其意は、「ごい」の「ご」は「その」っていう字で、自からその意を浄める。自浄其意は大菩薩の境涯だと云ってる。だからそこまでにうんとかかるんですね。
知や意はわかりゃしないんです。あんなとこへ無明はいっていたって、なかなかわかりゃしない。また、使いようによって無明になり、使いようによって無明にならんのでしょう。使いようによってある構図が出来る。その構図に従って情が働く。その時無明になったりならなんだりする。知や意それ自体に無明が有るも無いもありません。有りゃ自分じゃない。どういう情が伴うかということです。
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