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2017.03.13up

岡潔講演録(25)


「情を語る」

【10】 情を浄める

 まあ、そういうこと。詳しく述べるのはまたにしますが、で、そんなふうだから、仏教の修行も情を主として修行すべきものです。

 仏教倫理「諸悪莫作(しょあくまくさ)衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)自浄其意(じじょうごい)」と云いますが、諸悪莫作と云うのは悪いことはするな、衆善奉行は良いことはせよって云ったら、知や意の領域ですね。

 自浄其意は情を浄めよって云うことです。諸悪莫作、衆善奉行がすんでから自浄其意なんです。で、実際は情が自分です、真情が自分です。真情がきれいなら、もうそれでよいんです。で、自浄其意が大事なんです。始めから自浄其意やりゃよい。

 知や意は自分じゃないから、あの中に無明がはいってもわからん。それで容易に取れん。それでアラヤ識がなかなか渡れない。非常に長くかかって渡るでしょう。

 自浄其意ったら情を浄め真情を浄めることです。これは真情は自分だから、それが無明でなくなれば直ちにわかる。だから直ちに浄めることが出来る。自浄其意は、「ごい」の「ご」は「その」っていう字で、自からその意を浄める。自浄其意は大菩薩の境涯だと云ってる。だからそこまでにうんとかかるんですね。

 知や意はわかりゃしないんです。あんなとこへ無明はいっていたって、なかなかわかりゃしない。また、使いようによって無明になり、使いようによって無明にならんのでしょう。使いようによってある構図が出来る。その構図に従って情が働く。その時無明になったりならなんだりする。知や意それ自体に無明が有るも無いもありません。有りゃ自分じゃない。どういう情が伴うかということです。

(※解説10)

 岡によると道元禅師は「言葉にだまされるな」といっているというが、岡は言葉の解釈による理解にしがみつくのではなく、全てのことを簡素化し一言でいい切る。そうして生まれてきた言葉が「仏教は知と意」である。仏教をここまで簡素化した人は、今までいないだろう。

 そうしておいて仏教を構造的に「知情意」で説明するのだから、我々素人には直ぐわかる。かえって仲々わからないのが、その道の専門家かもしれない。いろいろと細かい知識が邪魔をするのである。

 日本人が「こころ」といえば「情」である。「知や意」は道具である。その「情」に無明(濁り)が入れば直ぐにわかるのだが、道具に無明が入っても仲々わからないのは道理ではないだろうか。こういうシンプルな論理を「日本哲学」というのである。

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