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2017.03.13up

岡潔講演録(25)


「情を語る」

【12】 バケツの中の水は情緒

 素粒子論は、物質も質量の無い光も電気も、みな素粒子からなっていると云う。素粒子には種類が多いが、安定な素粒子と不安定な素粒子とある。

 不安定な素粒子は、生まれてきてまたすぐ消えていってしまっている。その寿命は、普通100億分の1秒くらい。しかしかように短命だけれども、非常に速く走っているから、生涯のうちには1億個の電子を歴訪する。

 そう云ってますが、そうすると不安定な素粒子は、ともかく生まれてきてすぐ消えていってしまっている。安定な素粒子は、例えば電子は、絶えず不安定な素粒子の訪問を受けている。だから安定しているのは位置だけであって、内容は絶えず変わっているのだと ― 云わば不安定な素粒子はバケツに何かを入れてしきりにそれを運んでいるんだと、そうみえる。

 そのバケツに入っているものは何か。私はそれは情緒だと思うんです。で、絶えず情緒が入れ替ってるから人は生きてるんだ、そう思うんですね。それが情であり真情である。

(※解説12)

 情緒は瑞々しいのが特徴である。「瑞」という字は中国では「めでたい」という意味らしいが、日本では「水々しい」と書く方が本当ではないかと私は思う。「水もしたたるいい女」という言葉もある。これは情緒豊かな女性という意味だろうが、「瑞々しい」とはもともと「めでたい」というよりも「潤いのある新鮮さ」を表現した言葉ではないだろうか。

 私は「心の構造」を植物にたとえるのが好きである。第1の心(自我)が植物の「地上部分」、ここには時間空間がある。第2の心の第8識(アラヤ識)が「株」、第9識(真如)が共通の「地下茎」と思えばよい。そうすると第10識(真情)が満々と水をたたえた「地下水」ということになる。

 不安定な素粒子は岡がいうように、第10識(真情)から株や地下茎を通して、バケツで「情緒」という生命の水を人という植物に送り続けているのである。

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