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2017.05.02up

岡潔講演録(26)


「情の世界」

【4】 西洋人のソール(魂)

 西洋ではどうかと云うと、感情などというのは情のごく浅いところです。情はもっとどんどん深くなる。日本で普通「まごころ」と云っているのは情です。これが情の本体です。感情は西洋でエモーションとかフィーリングとか、そんなこと云いますが、こんなのは感情・感覚という浅いものです。問題にならない。もっと深い情は何んと云ってるかと云うと、ソール(魂)と云っている。これが情です。

 しかし西洋人は悪魔に魂を取られはしないかと思って、びくびくしている。東洋では心を自分と思っているんだから、情もその中に含まれる。しかし西洋では情を自分だと思っていない。それじゃ、西洋人は何を自分と思っているかと云うと、日本は終戦後アメリカの真似をしたから、アメリカ人を見ることは簡単です。自我を自分だと思っている。前頭葉の主人公、自我を自分だと思っている。

 だいたい感情などというのは、ごく浅い情です。もっと深い情とは、一口に云ってどんなふうなものか。これは一例をあげればよい。日本人は情というものを無意識的によく知っている。それで一例をあげれば足りるんです。

(※解説4)

 心理学で一番困るのは、西洋の心理学をそのまま日本に持ち込んで、その上で日本人の心理を説明しようとすることである。岡によると西洋は「第1の心」の自我意識の心理学であり、日本人はいまだ日本独自の「心理学」などというものはないのだが、本来「第2の心」の無私の心の世界なのである。その違いを改めて見詰めなおして頂きたいものである。

 さて、岡のいう西洋のソール(魂)であるが、西洋で「情」というと第1の心の「情」、つまり「感情」のことである。私は嬉しい、私は悲しい、私は愛す、私は憎むと「私」が入るのが「感情」である。西洋のテレビや映画はほとんど全てこの世界である。

 映画でいうならば、私が幼い頃高峰秀子主演「喜びも悲しみも幾年月(いくとしつき)」というタイトルの映画があったのだが、あれは自分の喜び、自分の悲しみが幾年月という意味ではない。人の喜びを喜びとし、人の悲しみを悲しみとして幾年月という意味である。

 だから、日本で「情」というと第2の心の「情」であって、これは「無私の情」のことである。「私」が入らないから人の喜びを喜び、人の悲しみを悲しみ、自然の情(風情)を自分の情とする。これが岡のいう「真情」である。

 西洋文明が入ってきて、漱石の「情に棹させば流される」という言葉のように、その違いがわからなくなってしまったのが、今日の日本の現状なのである。

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