「情の世界」
【5】 禅師と母親
お母さんと子供があった。明治初年の話です。子供が13歳になって、禅を修行したいと云いだした。それで、修行のために子供は家を出ることになった。
その別れの時に、母は子に向かってこう云った。お前が修行がうまくいって、人にちやほやされている間は私のことなんか忘れてしまってよろしい。しかし、もし修行がうまくいかなくなって、人に後指を指されるようになったら、私のことを思い出して帰って来ておくれ。私はお前を待っているから。こう云って別かれた。
それから30年たって、子供は修行がうまくいって偉い禅師になった。松島の霊厳寺という寺の住職をしていた。その時郷里から知らせがあって、お母さんは年をとってこの頃では寝たきりである。お母さんは何んとも云われないが、私達がお母さんの心をくんでお知らせすると、そう云ってきた。
それで禅師はとるものもとりあえず家に帰って、寝ているお母さんの枕辺に坐った。そうすると、母は子の顔を見て、こう云った。この30年、私はお前に一度も便りをしなかった。しかし、お前のことを思わなかった日は1日もなかったんだよ。
これが情です。私はこの話を初めて聞いた時、涙が流れて止まらなかった。これが情というものです。
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