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2017.05.02up

岡潔講演録(26)


「情の世界」

【6】 情の属性

 いろんなものがわかる、このわかるという働きですが、例えば松なら松がわかるというのはどういうことかと云うと、始めに子供は松だとわかっている。それにこれは松だと言葉を教える。こういうのが教えることの最初だけれども、その松を見て松だとわかるというのはどういうことかと云うと、感覚がわかるんでも、理がわかるんでもない。「趣き」がわかるんです。これは「情」です。だから情は目が見える。

 情の目でみたものに、これはこういう名だと名をつける。そして言葉が出来る。それに筋道をつけたものが知です。知で描いた地図の上に、具体的に意志を働かせる。心はこの順に動く。情は見ることも出来れば、知ることも出来る。

 道徳とは人本然の情に従うこと。だから道徳は教えてもらって知るものではない。始めから知っているものです。道徳がむつかしいのは、その通り実践することがむつかしいのです。

 こんなふうに、情は見ることも出来れば、知ってもいる。これが本です。また、深い感銘・印象等、決して忘れない。また、人本然の情の命にそむいて行為すると、心がとがめる。これも、いつまでも心がとがめて忘れることが出来ない。すなわち存在を与えるのは情です。

 自然は映像、こんなところに存在はありません。心の中にある。心の中のどこにあるか。情にある。知や意だけなら流れ去ります。

 道徳は知らないんじゃない。行えないと云いましたが、人本然の情の命に自我が従う、こういう状態に自我をおくのはむつかしいんです。云わば自我をよく馴らして、常に人本然の情の命に従うようにするのがむつかしい。孔子は「七十にして(のり)をこえず」と云ったでしょう。孔子ほどの人でも、自我を飼い馴らすには70年かかった。

(※解説6)

 これが最終的に岡がつかんだ「情の属性」である。「心」という目には見えないものを整理し、西洋心理学でも東洋哲学でも及ばない「心の世界」の核心をよくぞここまで解明したものである。

 「情」というと今までは漠然として甚だ曖昧なものと見られがちだったのだが、その「情」がこれほど物事の根底を支えていたとは誠に意外であり驚きである。

 先ず岡は物事の本質は「趣き」である。そして、「趣き」は「情」であるから「情は目が見える」というのである。そして情知意とつづく「心の働き」を見事に解明しているのだが、これは第1の心の「知」に重点をおくプラトンの「イデア論」ではとても及ばない説得力がある。

 次に「道徳とは人本然の情に従うこと」とはまた凄い。岡によれば人類で道徳とは何かを正確に説いた人は、1人もいないというのだからである。更に深い感銘とか印象、逆に心がとがめることなどから考えると、「存在を与えるのは情である」というのだから、「心の世界」を根底から支えているのは全て「情」であるといえそうである。

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