「情の世界」
【6】 情の属性
いろんなものがわかる、このわかるという働きですが、例えば松なら松がわかるというのはどういうことかと云うと、始めに子供は松だとわかっている。それにこれは松だと言葉を教える。こういうのが教えることの最初だけれども、その松を見て松だとわかるというのはどういうことかと云うと、感覚がわかるんでも、理がわかるんでもない。「趣き」がわかるんです。これは「情」です。だから情は目が見える。
情の目でみたものに、これはこういう名だと名をつける。そして言葉が出来る。それに筋道をつけたものが知です。知で描いた地図の上に、具体的に意志を働かせる。心はこの順に動く。情は見ることも出来れば、知ることも出来る。
道徳とは人本然の情に従うこと。だから道徳は教えてもらって知るものではない。始めから知っているものです。道徳がむつかしいのは、その通り実践することがむつかしいのです。
こんなふうに、情は見ることも出来れば、知ってもいる。これが本です。また、深い感銘・印象等、決して忘れない。また、人本然の情の命にそむいて行為すると、心がとがめる。これも、いつまでも心がとがめて忘れることが出来ない。すなわち存在を与えるのは情です。
自然は映像、こんなところに存在はありません。心の中にある。心の中のどこにあるか。情にある。知や意だけなら流れ去ります。
道徳は知らないんじゃない。行えないと云いましたが、人本然の情の命に自我が従う、こういう状態に自我をおくのはむつかしいんです。云わば自我をよく馴らして、常に人本然の情の命に従うようにするのがむつかしい。孔子は「七十にして矩をこえず」と云ったでしょう。孔子ほどの人でも、自我を飼い馴らすには70年かかった。
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