b 岡潔講演録(26):【 8】 幸福と情
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2017.05.02up

岡潔講演録(26)


「情の世界」

【8】 幸福と情

 その他、例えば幸福という言葉、戦後よく使いますが、戦前どんなふうに使われていたかというと、人と人とがかなり長い別れをする時、そして相手が女性である場合、よく「お幸せに」というふうな云い方をする。幸福をこんなふうに使えば日本語です。

 また、子供の将来を思って、この子の行く末が「幸せ」なればよいがっていうふうに使います。こんなふうに使ったのが日本語。

 こういう言葉を出す心、情緒、これは深層の情。しみじみとした情緒。表層の情緒との比較は、この頃の幸福という言葉の使い方と比べてみたらよい。この頃の幸福という言葉の使い方は、これは日本語でなくてアメリカ語です。

 日本人は意識でいうなら、深層意識の世界に住んでいます。この頃はもっぱら表層意識の世界にに住んでいる。表層の意識を通せば、必ず大脳前頭葉。大脳前頭葉を使ってわかれば、必ず表層意識を通す。表層意識の世界は大脳前頭葉の世界です。この頃の日本語は、だいたい表層意識の世界を描いている。

 幸福って云ったら、真の幸福を幸福と感じる主体は情です。幸福とは、あえて云えば、情という薪が燃えているようなもの。そうすると暖かである。それが情、こんなふうなもの。

 それで、より高い幸福は、薪がよく燃えている時におこる。それで、その人が情の深みに住めば住むほど、幸福の質は高い。

 ところが、薪を燃やすのに、マッチで火をつけるとか、ともかくきっかけというものがいる。これが多くの場合、環境です。

 その時マッチで火をつけるか、もっと大きなもので火をつけるかによって、薪の燃え方は変ってしまう。だからより高い幸福は、環境を変えることによって得られるんじゃなく、心の深みに住むことによって得られる。これが幸福というものの本質なんです。人はそれを知らない。

 その住んでいく時に是非いるものは道徳です。人は道徳とは何か知らない。幸福とは何か知らない。人はどう住んでよいかわからない。

 だから今の文明というものは、人がその中に住む家ではなくて、単に家を建てる為の素材にすぎない。すなわち、いまだ文明以前です。

(※解説8)

 岡によると日本では本来、「幸せ」という言葉は人の幸せを願う時に使うものである。だから「お幸せに」という使い方はする。しかし、その逆に「私は幸せよ」という使い方はしないはずである。しかし、アメリカ文化が入ってきてからは、そういう使い方の方がむしろ普通になってしまったと岡は嘆くのである。これが第1の心の自我意識の「幸福感」である。

 しかし、岡は本当の幸せとは「その人が情の深みに住めば住むほど、幸福の質は高い」といっているが、正にこれは至言である。では、「情の深み」とはどういう所か。それは人の喜びを喜びとし、人の悲しみを悲しみとする「こころの深み」である。

 例えば私の絵の会の大野長一は、親のいない子供達の面倒を終生見つづけた養護施設の園長であったし、私の教育の会の内田八朗は教頭を退職したあとも、学校の用務員として無給でよいから子供達を見守りたいと願っていたのである。私の実感として岡のいう「こころの深み」とは、こういうところではないかと私は思うのである。

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