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2017.05.02up

岡潔講演録(26)


「情の世界」

【11】 釈尊、孔子、老子

 本当の自分といったら情である。情が自分だから情を取去ったら何も残らない。ところが、仏教は知を大事にして、情を取除けっていうふうに教えている。日本へ来てからの仏教はそうなっている。そんなこと、出来やしない。

 知を自分ではないと切捨てて修行すればよい。最初に難行・苦行をやらせるんですが、難行・苦行は意志の修行です。こんなことしたって、なんにもならないのです。

 ただ、前頭葉の衝動はよくない。これは釈尊、云いたくとも云えやしませんが、今ならたやすくわかる。西洋人がきちんと調べたからですが、前頭葉の感情とか、もっといけないのは意欲とか、これはいけない。これを除けと云うべきを、前頭葉を働かすのがいけないと教えたらいいところを情がいけないと教えたから、うまくいくわけがない。

 前頭葉がいけないとまでわからなかったのは無理もないとして、情に浅いのと深いのとあって、深い情だっていうのはわかりそうなものだけど、わからなかったらしい。ともかく、意識できる情緒と、意識できない情緒があるということ、気がついてないんです。

 ともかく、孔子はもうはっきりと、道徳とは何か知らなかったんです。孔子はそれだけじゃない。道徳とは知っているもので、教えられて知るものじゃないということも知らなかったらしい。

 その点について老子につっこまれたということですが、老子はしかしその時、「兎は教えなくても白く、烏は教えなくても黒いじゃないか」っていうふうなこと云っているから、情が大事だということは知らないのです。知が大事だと思ってたんでしょう。しかし孔子は、教えなくても知っているものだということも知らなかった。まあ、いろんなこと知らなかった。

 釈尊だって、どうして情が自分だとわからなかったのだろう。空と云えば真情だけが残ることです。知や意や自我とか空なんです。真情は残っている。やはり真情をみる目が充分開いてなかったんでしょう。

(※解説11)

 これが20世紀末に人類が手にした東洋哲学の最終批判である。これは裏を返せば20世紀までの宗教が、まだまだ不完全であったという岡の証明といえるものである。

 岡によれば西洋と東洋の「心の構造」は第1の心(自我)と第2の心(無私の心)に別かれ、更に東洋と日本とはその「第2の心」の中の「知」と「情」に別けることができるから、こんなにもシンプルで説得力のある東洋哲学批判が可能だったのである。

 さて、先ずここでは、仏教を車でいえば美事にオーバーホールしている。仏教の骨格を知情意という要素から鮮明にしておいて、仏教の全体像を一掴みにするのだから凄いと思う。

 仏教は「知と意」を重視して、前頭葉に働く喜怒哀楽の「感情」を抑止しようとするあまり、岡の説く「真情」をも否定してしまったのである。この区別がつかなかったことが、釈尊の大きな間違いだったと岡はいうのである。

 更には、孔子と老子の関係に話が及ぶのであるが、老子も「情の世界」がわかりかけていたものの、やはり東洋を完全に抜け出すことは難しく、「知」が大事だと思っているようである。

 しかし、老子の基本理念はご存知のように「無為自然」 であるが、孔子は一応「仁」とはいうが一方で、「立身出世主義」といってもよく、人は成長するほど偉くなるものという考え方のようだから、岡のいうように「教えなくても知っているものだということも知らなかった」というのである。

 猶、「仏教は知を大事にして、情を取除けっていう」といって仏教は情を否定的に見るのだが、それは「五情五欲」という言葉があることからもわかると思う。

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