「情の世界」
【11】 釈尊、孔子、老子
本当の自分といったら情である。情が自分だから情を取去ったら何も残らない。ところが、仏教は知を大事にして、情を取除けっていうふうに教えている。日本へ来てからの仏教はそうなっている。そんなこと、出来やしない。
知を自分ではないと切捨てて修行すればよい。最初に難行・苦行をやらせるんですが、難行・苦行は意志の修行です。こんなことしたって、なんにもならないのです。
ただ、前頭葉の衝動はよくない。これは釈尊、云いたくとも云えやしませんが、今ならたやすくわかる。西洋人がきちんと調べたからですが、前頭葉の感情とか、もっといけないのは意欲とか、これはいけない。これを除けと云うべきを、前頭葉を働かすのがいけないと教えたらいいところを情がいけないと教えたから、うまくいくわけがない。
前頭葉がいけないとまでわからなかったのは無理もないとして、情に浅いのと深いのとあって、深い情だっていうのはわかりそうなものだけど、わからなかったらしい。ともかく、意識できる情緒と、意識できない情緒があるということ、気がついてないんです。
ともかく、孔子はもうはっきりと、道徳とは何か知らなかったんです。孔子はそれだけじゃない。道徳とは知っているもので、教えられて知るものじゃないということも知らなかったらしい。
その点について老子につっこまれたということですが、老子はしかしその時、「兎は教えなくても白く、烏は教えなくても黒いじゃないか」っていうふうなこと云っているから、情が大事だということは知らないのです。知が大事だと思ってたんでしょう。しかし孔子は、教えなくても知っているものだということも知らなかった。まあ、いろんなこと知らなかった。
釈尊だって、どうして情が自分だとわからなかったのだろう。空と云えば真情だけが残ることです。知や意や自我とか空なんです。真情は残っている。やはり真情をみる目が充分開いてなかったんでしょう。
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