「情の世界」
【19】 宣長と漱石
日本人はだいたい前頭葉を使わんのだと思う。それで少しも云ったり書いたりしない。孔子は日本人じゃないから充分わかってはいませんけど、中国人しますから、それで幾分残っている。あの方がデューイよりは、余程ちゃんと云っている。デューイと孔子は正反対だということを知って、デューイよりは孔子の方へ行ってもらいたい。
自我抑止、これを孔子は70年続けた。それくらい続けなきゃ、本当に飼い馴らされた馬のようにはならない。
本来ある真情に体を支配する自我というものをくっつけて、まだ極めて日が浅い。ぴったりついてはいない。真の自分と、それから自我が飼い主を支配している。肉体と心とがぴったり1つになってない。心に従ってもらわなきゃ駄目。もう、全然間違えている。一番間違ったアメリカの真似をするから。
日本は応神天皇以後、間違った外国の真似ばかりしている。中国の真似をし、仏教の云うところをそのまま取り入れ、明治以前にこれ2つ間違った。これが間違いだと指摘したのは本居宣長。
漢意清く捨てらるべし しきしまの大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花
情緒絢爛と匂っているのが立派な人である。仏教や儒教は、その情というものを大切だと少しも思っていない。まあ、こんなふうに感じたんだけど、はっきりそう云っていないのは、まだ充分よくそれがわかっていなかった。
明治にいたって、西洋の学問思想を取入れて間違っている。だから漱石なんかも、感情を自分だと云っている。だから「情に棹させば流される」と云った。情に棹させば流されるどころじゃない。30年1日の如しというのが情です。
人に節操あるのは情あるによる。全然もう、あの辺でわからなくなっている。終戦後は目にあまる。アメリカの真似ばかりして。
「聞くものの音も見る色もいずれか夷()のものならん、思えば遠く来つるかな」
僕は何度、これ、くちずさんだかわからない。夷ったら、勿論アメリカです。あの野蛮人の真似をしている。
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