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2017.05.02up

岡潔講演録(26)


「情の世界」

【19】 宣長と漱石

 日本人はだいたい前頭葉を使わんのだと思う。それで少しも云ったり書いたりしない。孔子は日本人じゃないから充分わかってはいませんけど、中国人しますから、それで幾分残っている。あの方がデューイよりは、余程ちゃんと云っている。デューイと孔子は正反対だということを知って、デューイよりは孔子の方へ行ってもらいたい。

 自我抑止、これを孔子は70年続けた。それくらい続けなきゃ、本当に飼い馴らされた馬のようにはならない。

 本来ある真情に体を支配する自我というものをくっつけて、まだ極めて日が浅い。ぴったりついてはいない。真の自分と、それから自我が飼い主を支配している。肉体と心とがぴったり1つになってない。心に従ってもらわなきゃ駄目。もう、全然間違えている。一番間違ったアメリカの真似をするから。

 日本は応神天皇以後、間違った外国の真似ばかりしている。中国の真似をし、仏教の云うところをそのまま取り入れ、明治以前にこれ2つ間違った。これが間違いだと指摘したのは本居宣長。

  漢意清く捨てらるべし
  しきしまの大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花

 情緒絢爛(けんらん)と匂っているのが立派な人である。仏教や儒教は、その情というものを大切だと少しも思っていない。まあ、こんなふうに感じたんだけど、はっきりそう云っていないのは、まだ充分よくそれがわかっていなかった。

 明治にいたって、西洋の学問思想を取入れて間違っている。だから漱石なんかも、感情を自分だと云っている。だから「情に棹させば流される」と云った。情に棹させば流されるどころじゃない。30年1日の如しというのが情です。

 人に節操あるのは情あるによる。全然もう、あの辺でわからなくなっている。終戦後は目にあまる。アメリカの真似ばかりして。

  「聞くものの音も見る色もいずれか(えびす)のものならん、思えば遠く来つるかな」

 僕は何度、これ、くちずさんだかわからない。夷ったら、勿論アメリカです。あの野蛮人の真似をしている。

(※解説19)

 岡は釈尊や孔子の欠点をかるく批判するぐらいだから、ここでは宣長や漱石も岡の手のひらに乗っているようなものである。

 宣長は岡のいうように「情」というものを見極めて、仏教や儒教は少しもその「情」を大切だとは思っていない。とまでは行かなくても、「情緒絢爛と匂っているのが立派な人である」と漠然と感じたのだから、差す指は間違ってはいない。今一歩のところだったと岡はいうのである。

 漱石に関しては、「則天去私」という立派な言葉も残しているのだが、一方で西洋の学問の影響を受けて、「情」とは「感情」のことだと思い違いをしてしまった。その影響は今にいたるまで尾を引いているというのである。

 だから日本歴史に残る宣長や漱石でさえ、日本人の苦手な「前頭葉」を十分使っているとはいえない、と岡はいいたいのだろうか。

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