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2017.07.19up

岡潔講演録(27)


「情の構造」

【3】 真如(童心、第2期)(2)

 それから、目でものを云うことが出来るようになる。つまり私が孫の目をみますと ― これは5ヵ月半ぐらい経った時から後ですが、瞳を見ると無色の色が見える。それで心がわかる。これは何も私だけじゃない。東洋人はみなそうらしい。だから中国に、

 君不看双眸(君みずや双眸の色)
 不語似無憂 (語らざれば憂い無きに似たり)

 こういう詩の句が有る。無色の色が出てくる。ところが色というのは感覚、感覚は刺激です。刺激は非常に物質的なものですね。その感覚という程ではないが、無色の色と感じる。感覚の方が出だす。一部物質に近寄るんですね。心が物質化してくる。

 次の時期と比較して著しい特徴は、次の時期には心と物と二元出てくるんですが、ここではまだ心だけしかないんです。おばあちゃんに対すると、椅子に対すると同じ取り扱いです。みな心。物というのはまだ出てきてない。次の時期にならないと出来ない。だいたいこういう心で取り囲む。

(※解説3)

 ここで注目されるのは「目でものをいう」ということだろう。この時期に岡はこの「目でものをいう」ということをいわゆる「心眼」の働きだといっている。詳しくは(18)創造の視座(20)「情緒と心眼」を参照。

 次に問題になるのは、「おばあちゃんに対すると、椅子に対すると同じ取扱いです」とは一体どういうことだろう。それは「始の生い立ちの記」に詳しいが、「始」が何か気にいらないことがあった際、先ずはおばあちゃんを叩き、次に近くにある椅子もついでに叩いて行ってしまったということである。これは人も物もともに「心」があると見ている証拠であって、つまり「物心一元」なのである。

 大体、この「真如」とは知情意でいうと「情」ではなく「知」の世界であるから、「情」という流体が少うし結晶に近づき粘性を帯びはじめる時期である。それから「無職の色」という無色ではあるが色という表現も出てくる。だから少うし透明度が減ったように感じると岡はいうのである。

 だがそれに対して仏教は、自然数が存在し「物心一元」ではあるが、岡から見れば少うし透明度が減ったように感じられる「真如」の世界を、如来のおわす光輝く生命の世界と古来考えてきたのである。

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