「情の構造」
【5】 仏教と儒教の限界
日本での仏教を修行する人々の大多数をみてみますと、仏教を修行すると人がだんだん偉くなっていく。階段をのぼるように偉くなっていく。一番偉くなったのが仏である。仏は十大力といって非常な力を備えるべきだ。まあ、こんなこと思って修行している人が一番多いように見える。
今の日本の有様ですが、新顔の人がみえると、あの人はどれくらいの位置の人か、つまり課長さんか局長さんかなあ、月給はどれくらいかなあ、そういうことすぐ知ろうとする。そして、だいたいそういうふうな物差しが出来ていて、教育ママはその物差しの、つまりよい位置へいって、余計月給がもらえるようにと思って、子供に勉強を強いる。子供は子供で、社会へ出てから、だんだんよい位置へ年と共に昇っていって、月給も増していくということを尺度にしている。
そうすると、今の日本人は、人生というとだいたいこんなふうにして云い表わされてしまう。これが如何に愚劣な人生であるか、あなた方にはいっぺんにわかってしまう。ところが、こんな下地をつくったのは、1つは仏教が念入りに教えたんだし、もう1つは儒教です。
孔子は「身を立て名をあげ、もって父母の名をあらわす、これ孝のおわりなり」と云って名誉心をあおった。のみならず、孔子が王道政治と云って大切にしたのは堯、舜の政治ではなく、周の政治の仕方。周は漢民族ではなく、西方の蛮族。その風習は先祖の名をあげるということを、非常に大切にしたらしい。
ともかく明治の頃は、教育は立身出世主義で勉強させた。だから人はだんだん偉くなって、偉くなるほど月給のあがっていくものと、こう思っているんですね。これが生きた人というものの尺度になっているらしい。
|