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2017.07.19up

岡潔講演録(27)


「情の構造」

【6】 真情と日本の神々(1)

 こんなふうなことしたのに、一番あずかって害があったのは仏教だと思う。だいたい、真情の中に住んだら、力と観念はきざさない。仏教の一派の光明主義という一宗は、大宇宙には中心がある。それがアミダ如来である。アミダ如来が大宇宙を支配している、一切智、一切能をもって支配している、こんなふうに云っていますが、支配という想念もきざさない。智という、能という、想念もきざさない。一切そんなものきざさない。

 だから一切智、一切能をもって大宇宙を支配しようと思ったらアミダ如来は、第9識に住むより仕方ない。もう一つ上、第10識と云うべきでしょう、そこには住めない。そこに住んだら、想念さえきざさない。出来やしません。こんなふうになっているんです。

 我々日本人は、日本人て、今日日本列島に住んでいる人達が日本人、昔からというんではない。日本人だけが情を自分だと無意識的に知っている。そこまで来てりゃ、もうあとは意識的に教えりゃいいんだから簡単に出来る。禅のような悟り方、いらない。意識的にわかればそれでいい。無意識的にわかってしまっているから。

 意識的にわかってないものを、意識的にわからすことは人に出来る。だが無意識的にわかってないものを、無意識的にわからすことは人には出来ません。だから、そこをやってくれてあるから、それであと日本人だけなら簡単なものです。禅のような悟り方なんかいらない。

(※解説6)

 ここでは従来の高等宗教の理想の世界である第9識「真如」と、岡が発見した第10識「真情」の特徴の違いを指摘しているのである。

 孫の「始」の心の生い立ちを見てもわかるように、第10識「真情」は澄みきった情の世界であるから、ここはただただ「懐かしさと喜び」の世界であって、仏教がいうように意(力)とか知(観念)とかいう想念は一切きざさないというのである。その「意と知」を1つの要素に還元すると「偉さ」という言葉になるのだろう。

 日本には度々いうように「実るほど首を垂れる稲穂かな」という諺があるように、日本人は本来その「力」とか「偉さ」とかが及ばない世界に住んでいるのではないだろうか。しかも岡から見れば「無意識的」にそう思っているというのだから、そこが誠に不思議でもありおもしろいところでもある。

 岡はこれは日本の神々の長い間の教育の賜物というのであるが、「意識的」に教育するにはそれほど時間はかからないだろうが、「無意識的」に教育したのであるから、少なくともそれには10万年はかかっていると岡はいうのである。

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