「情の構造」
【9】 人とは真情の物質的表現
真ん中の「真情」、それを包むのが「真如」、それから「アラヤ識」。三重に包んで、それから外へ生まれていくわけです。そうすると「マナ識」という心が出来る。西洋人の知っているのはこの心だけです。この心だけは肉体にとじ込められてある。つまり、マナ識が出来て、その上に肉体が出来る。あとの3つの心、これが深層の心ですが、これは肉体の内外の別なひろがり。
だいたいこんなふうです。そうして出来て、自我が出来るんでしょう。こんなふうに出来ていくんですが、こういう有様を見て一口にどう思うかっていうと、人というものは真情(こころ)がだんだん物質的に表現されていくものだと思う。それで赤ん坊を見ると、だんだん外から見てよくわかるようになっていく。造化が人の心を物質的に描いていく。その絵筆がすすむ。それでだんだんよくわかるようになっていく。
ここまでですが、推して思う。これは、もう、人全体そうだと思う。人というのは真情(こころ)の物質的表現だと思う。つまり、懐かしさと喜びの世界というのは、真情の世界でじかに見たら、それだけしか云えないのが、細かく云えるようになるんですね。小説なんかに書けるようになる。だが、畢境何を見てるかというと、懐かしさと喜びの世界。それ、光ですが、その影もありますが・・・
人というのは真情、すなわち懐かしさと喜びの世界の真情、それの物質的表現である。これが基本の素描です。人とは真情の物質的表現である。だから物質を見て知らなきゃならんことは「こころ」ですね。真情です。
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