「情の構造」
【10】 大宇宙の中核は真情(1)
外界との関係を少しみておきましょう。日本人が自然界の森羅万象を知っていくのは、どんなふうにして知っていくかと云いますと、道元禅師は雨だれについてこう詠んでいる。
聞くままにまた心なき身にしあらば おのれなりけり軒の玉水
雨だれをじっと聞いて我を忘れている、そうしてふと我にかえる。その時、雨だれというものが、自分の心の一部をみるが如くわかる。こんな意味です。つまり、雨だれの心と自分の心とが暫く合一している。合一している時は無心なんですね。また自分だけの心になった時、我にかえった時、雨だれの心がわかる。
雨だれというものがわかる。これ、合一するのは情と情が合一するんです。知や意は合一出来やしません。この見方、妙観察智と云うんですね。総てこの見方で見る。松を見て松とわかるのは、竹を見て竹とわかるのは、小川のせせらぎがわかるのは、そよ風がわかるのは、皆このわかり方でわかってきた。
そして、ちゃんとわかっているから、もう一度それを見りゃ、すぐわかるんですね。そうすると、このわかり方でわかってきたんだから、大宇宙の中核もまた情でなければならない。でなかったら合一出来ない、自分の情と。だから大宇宙の中核は矢張り情です。
あとは詳しく知らなくてもいいでしょう。これが一番大事なこと。実際、自然をみてみますと、心の中に見えます。心が正常な時は心の中に見える。見えなかったら異常なんです。例えば、そんな状態じゃあ、何をやろうたって駄目なんです。
心の中に見えなかったら自他対立して見える。これはいけません。それは物質の世界。心の中に見える、だから同じ自然を見ても、わかり方が日本人と西洋人は全々違う。特に、西洋人に雨の趣きなんかわかるはずがない。そよ風もせせらぎもわからんでしょう。
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