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2017.07.19up

岡潔講演録(27)


「情の構造」

【10】 大宇宙の中核は真情(1)

 外界との関係を少しみておきましょう。日本人が自然界の森羅万象を知っていくのは、どんなふうにして知っていくかと云いますと、道元禅師は雨だれについてこう詠んでいる。

  聞くままにまた心なき身にしあらば
   おのれなりけり軒の玉水

 雨だれをじっと聞いて我を忘れている、そうしてふと我にかえる。その時、雨だれというものが、自分の心の一部をみるが如くわかる。こんな意味です。つまり、雨だれの心と自分の心とが暫く合一している。合一している時は無心なんですね。また自分だけの心になった時、我にかえった時、雨だれの心がわかる。

 雨だれというものがわかる。これ、合一するのは情と情が合一するんです。知や意は合一出来やしません。この見方、妙観察智と云うんですね。総てこの見方で見る。松を見て松とわかるのは、竹を見て竹とわかるのは、小川のせせらぎがわかるのは、そよ風がわかるのは、皆このわかり方でわかってきた。

 そして、ちゃんとわかっているから、もう一度それを見りゃ、すぐわかるんですね。そうすると、このわかり方でわかってきたんだから、大宇宙の中核もまた情でなければならない。でなかったら合一出来ない、自分の情と。だから大宇宙の中核は矢張り情です。

 あとは詳しく知らなくてもいいでしょう。これが一番大事なこと。実際、自然をみてみますと、心の中に見えます。心が正常な時は心の中に見える。見えなかったら異常なんです。例えば、そんな状態じゃあ、何をやろうたって駄目なんです。

 心の中に見えなかったら自他対立して見える。これはいけません。それは物質の世界。心の中に見える、だから同じ自然を見ても、わかり方が日本人と西洋人は全々違う。特に、西洋人に雨の趣きなんかわかるはずがない。そよ風もせせらぎもわからんでしょう。

(※解説10)

 今我々日本人は西洋の世界観の影響を受けて、自然とはただの「物質」だと思っているが、本当にそうだろうか。少なくとも私には自然を感覚的にみて「物質」とみる見方と、「情緒の表現」とみる見方と2つあるように思うのである。

 岡は本文で「自然は心の中に見える」といっているが、これはどういう意味だろう。日本人は自然の風物のどんなものを見ても、「かわいらしい」という見方をするが、この見方がそれではないかと私は思うのである。

 野の一輪の花を見ても一匹の小さな動物を見ても、日本人はよく「かわいらしい」という言葉を使うが、これが「心の中に見える」つまり「自分の情の世界の中に全てのものが存在する」という見方ではないだろうか。

 西洋では秋の虫の音を聞いても小川のせせらぎを聞いても、一種の雑音としか聞こえないというが、長い年月の習慣として人と自然とが自他対立し、自然を「情緖」ではなく「感覚」のみで捕えるから、こういう結果になるのである。

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