(※解説14)
岡は冒頭「政治はまことにおかしい」といっているが、今世界を見回してみても人々が本当に平和に暮らせる、理想的で安定した政治といえるものがあるだろうか。もしもいまだそれがないとなれば、我々はこれから本腰を入れてその政治形態を模索していかなければならないが、岡の答えは意外にもこの「祭政一致」である。
岡は現在ある自由主義も共産主義も、ともに「第1の心」の自我の政治形態だと見ているのである。「第1の心」の自我の人間観から出発したのでは、人類が20世紀に経験したように左は全体主義に陥るし、右は衆愚政治に陥るからである。
それでは「第2の心」が出発点となっている政治形態とは、どんなものがあるだろうか。それは我々には甚だなじみの薄いものだが、岡がここでいうように日本では古代にあったはずの「祭政一致」、つまり天皇が天の声をきいて祭事を行うという日本本来の「天皇制」であり、他方中国の古代にあったという道徳をつんだ聖人が世を治めるという「王道政治」なのである。
今日の我々の政治感覚からすると、岡の理想は我々とは随分と隔りがあるのは確かだが、政治といえども出発点の人の「心の構造」が重要なのであって、「情の世界」が確立していなければどんな制度も本当には機能するはずはなく、特に「情の世界」と「祭政一致」とは本来、一体不可分だと岡は見ているのである。
だから辞書で「祭政一致」とひくと「神権政治」という言葉が出てくるのだが、その内容は「支配者が神の代理者として絶対権力を主張し、人民を服従させる政治形態」というのである。
とんでもないことである! これは岡のいう「祭政一致」とは全く別物である。これは今の日本の天皇制と比較すれば直ぐわかることで、「神権政治」とは西洋の第1の心の「力の思想」の産物以外の何物でもない。つまり、神の名を借りた「泣く子も黙る」政治形態ということである。
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